平有親
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時代 | 鎌倉時代前期 ‐ 中期 |
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生誕 | 建久5年(1194年) |
死没 | 文応2年1月4日(1261年2月4日) |
改名 | 有親→真浄(法号) |
別名 | 知親 |
官位 | 従二位、参議 |
主君 | 順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 桓武平氏高棟流 |
父母 | 父:平親国[1]、母:藤原光隆娘[1] |
兄弟 | 惟忠、有親、範親 |
子 | 時継 |
平 有親(たいら の ありちか)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。桓武平氏高棟流、従三位・平親国の次男。官位は従二位・参議。
経歴
[編集]後鳥羽院政期初頭の建仁元年(1201年)女御・藤原琮子の給により従五位下に叙爵したのち、皇后宮少/大進として皇后・範子内親王に仕える。建保3年(1215年)順徳天皇の中宮・藤原立子の中宮権大進に任ぜられ、翌建保4年(1216年)正月に従五位上に叙せられるが、同年2月に中宮権大進を辞する。
その後はしばらく散位であったとみられるが、承久3年(1221年)承久の乱後に、勘解由次官兼五位蔵人に任ぜられ、翌貞応元年(1222年)正五位下に昇叙される。嘉禄元年(1225年)7月に右少弁に任ぜられると、同年12月に権右中弁、嘉禄2年(1226年)従四位下、嘉禄3年(1227年)従四位上・左中弁、寛喜2年(1230年)正四位下と弁官を務めながら順調に昇進する。寛喜3年(1231年)3月に蔵人頭兼内蔵頭に遷り、同年10月に秀仁親王が春宮に立てられると春宮亮を兼ね、翌貞永元年(1232年)秀仁親王の即位(四条天皇)後に有親は参議に任ぜられ公卿に列した。
議政官として備中権守のみを帯びるも、貞永2年(1233年)従三位、嘉禎元年(1235年)正三位と昇進する。嘉禎4年(1238年)閏2月に子息の時継を五位蔵人に補す代わりに参議を辞任するが、同年6月には従二位に至った。
延応2年(1240年)6月に出家し、真浄と号する[2]。文応2年(1261年)1月4日薨去。享年68[2]。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 建仁元年(1201年) 正月6日:叙位(女御琮子給)。12月22日:皇后宮少進(皇后・範子内親王)
- 建仁2年(1202年) 4月15日:皇后宮大進
- 建仁3年(1203年) 12月28日:復任
- 建保3年(1215年) 4月11日:中宮権大進(中宮・藤原立子)
- 建保4年(1216年) 正月5日:従五位上(簡一)。2月28日:辞権大進
- 承久3年(1221年) 8月29日:勘解由次官。閏10月:五位蔵人
- 貞応元年(1222年) 4月13日:正五位下
- 貞応3年(1224年) 正月23日:但馬介(次官労)
- 嘉禄元年(1225年) 7月6日:右少弁。12月22日:権右中弁[3]
- 嘉禄2年(1226年) 正月5日:従四位下
- 嘉禄3年(1227年) 10月4日:左中弁。12月25日:従四位上
- 安貞2年(1228年) 2月1日:兼武蔵介(装束司賞)。2月7日:左宮城使
- 寛喜2年(1230年) 2月23日:正四位下
- 寛喜3年(1231年) 3月25日:内蔵頭、蔵人頭、去弁。10月28日:兼春宮亮(春宮・秀仁親王)
- 貞永元年(1232年) 12月15日:参議、去亮
- 貞永2年(1233年) 正月24日:備中権守。12月15日:従三位
- 嘉禎元年(1235年) 11月19日:正三位
- 嘉禎4年(1238年) 正月22日:備中権守。閏2月27日:辞職(以男時継補五位蔵人)。6月20日:従二位
- 延応2年(1240年) 6月14日:出家
- 文応2年(1261年) 正月4日:薨去