市橋長和
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政4年5月8日(1821年6月7日) |
死没 | 明治15年(1882年)1月17日 |
改名 | 酒井鋼三郎(幼名)→市橋長和→長義 |
官位 | 従五位下・壱岐守、下総守、正五位、正四位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 近江仁正寺藩(西大路藩)第10代藩主 |
氏族 | 酒井氏→市橋氏 |
父母 |
父:酒井忠発、母:不詳 養父:市橋長富 |
兄弟 | 酒井忠発、増山正修、酒井忠中、長和、米津政易、米津政明、酒井忠寛、内藤信親室、鏈、鏡子、俊光院、猶ら |
子 |
長寿、鋼子(市橋長道室)など 孫虎雄(1892年 - ?) |
市橋 長和(いちはし ながかず)は、近江国仁正寺藩(西大路藩)の第10代(最後)の藩主。仁正寺藩市橋家11代。
経歴
[編集]出羽庄内藩主・酒井忠器の四男で、酒井忠発の弟に当たる。子は長寿(次男)、長女鋼子(市橋長道正室)など。養子に市橋長道(実父市橋長賢)。官位は従五位下、正五位、正四位、壱岐守、下総守。幼名は鋼三郎。はじめ長和と名乗っていたが、後に長義と改名する。
天保14年(1843年)5月16日、先代藩主・市橋長富の養子となる。長冨の男子は早世していた。弘化元年(1844年)8月15日、将軍・徳川家慶に拝謁した。同年10月7日、長富の隠居により家督を相続した。同年12月16日、従五位下・下総守に叙任した。後に壱岐守に改めた。嘉永6年(1853年)、ペリー来航から国内が政情不安に陥ると、軍備の増強の必要性を感じ取って火薬の製造を行なっている。文久2年(1862年)4月28日、仁正寺藩を格好と語呂が良い西大路藩へと改称した。
慶応3年(1867年)12月22日、上洛し、新政府を支持する姿勢を示した。明治元年(1868年)1月27日、新政府に敵対姿勢を示す武蔵川越藩主・松平康英の近江国内の領地の支配を命じられる。同年2月20日、藩兵の少なさを理由として、東山道鎮撫総督府軍の食料補給の任務の辞退を願うものの、認められなかった。
明治元年(1868年)の東京奠都では、明治天皇の守護と京都警備に務めた。明治2年(1869年)4月22日、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官されて東京へ移った。明治15年(1882年)正月17日、62歳で卒去した。墓所は東京都荒川区西日暮里の代々の菩提寺である南泉寺。
系譜
[編集]父母
子女
- 市橋長寿
- 伊藤まさ ー 伊藤かよの養女
- 市橋鋼子 ー 市橋長道室
養子
当主 | ||
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先代 市橋長富 |
仁正寺藩市橋家 11代 1844年 - 1882年 |
次代 市橋長寿 |