コンテンツにスキップ

市橋長和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
市橋 長和
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政4年5月8日1821年6月7日
死没 明治15年(1882年1月17日
改名 酒井鋼三郎(幼名)→市橋長和→長義
官位 従五位下壱岐下総守、正五位正四位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
近江仁正寺藩(西大路藩)第10代藩主
氏族 酒井氏市橋氏
父母 父:酒井忠発:不詳
養父:市橋長富
兄弟 酒井忠発増山正修酒井忠中長和米津政易米津政明酒井忠寛内藤信親室、鏈、鏡子、俊光院、猶ら
長寿、鋼子(市橋長道室)など
虎雄1892年 - ?)
テンプレートを表示

市橋 長和(いちはし ながかず)は、近江国仁正寺藩(西大路藩)の第10代(最後)の藩主。仁正寺藩市橋家11代。

経歴 

[編集]

出羽庄内藩主・酒井忠器の四男で、酒井忠発の弟に当たる。子は長寿(次男)、長女鋼子(市橋長道正室)など。養子に市橋長道(実父市橋長賢)。官位は従五位下、正五位、正四位壱岐下総守。幼名は鋼三郎。はじめ長和と名乗っていたが、後に長義と改名する。

天保14年(1843年)5月16日、先代藩主・市橋長富の養子となる。長冨の男子は早世していた。弘化元年(1844年)8月15日、将軍・徳川家慶に拝謁した。同年10月7日、長富の隠居により家督を相続した。同年12月16日、従五位下・下総守に叙任した。後に壱岐守に改めた。嘉永6年(1853年)、ペリー来航から国内が政情不安に陥ると、軍備の増強の必要性を感じ取って火薬の製造を行なっている。文久2年(1862年)4月28日、仁正寺藩を格好と語呂が良い西大路藩へと改称した。

慶応3年(1867年)12月22日、上洛し、新政府を支持する姿勢を示した。明治元年(1868年)1月27日、新政府に敵対姿勢を示す武蔵川越藩主・松平康英の近江国内の領地の支配を命じられる。同年2月20日、藩兵の少なさを理由として、東山道鎮撫総督府軍の食料補給の任務の辞退を願うものの、認められなかった。

明治元年(1868年)の東京奠都では、明治天皇の守護と京都警備に務めた。明治2年(1869年)4月22日、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官されて東京へ移った。明治15年(1882年)正月17日、62歳で卒去した。墓所は東京都荒川区西日暮里の代々の菩提寺である南泉寺

系譜

[編集]

父母

子女

  • 市橋長寿
  • 伊藤まさ ー 伊藤かよの養女
  • 市橋鋼子 ー 市橋長道

養子

当主
先代
市橋長富
仁正寺藩市橋家
11代
1844年 - 1882年
次代
市橋長寿