市来四郎
表示
時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
---|---|
生誕 | 文政11年12月24日(1829年1月29日) |
死没 | 明治36年(1903年)2月12日 |
別名 | 通称:正右衛門、四郎、諱:広貫 |
墓所 | 青山霊園 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 薩摩藩 |
父母 | 父:寺師正容、養父:市来政直 |
特記 事項 | 市来広一郎は子孫にあたる。 |
島津斉彬側近として琉球を通じての貿易を模索。安政4年(1857年)に「日本人が最初に撮った写真」と言われる島津斉彬のダゲレオタイプ(銀板)写真を撮った人物として著名である。子孫に地域づくりアドバイザーで「熱海V字回復の立役者」市来広一郎がいる[1]。
略伝
[編集]寺師正容の次男として城南の新屋敷で生まれる。のちに市来政直の養子となる[2]。
青年時には高島流砲術など火薬に関する勉学を修めたところを島津斉彬に認められ、側近となる。製薬掛、後に砲術方掛となり、集成館事業に携わるなどの要職を務める。安政4年(1857年)に斉彬の密命により琉球に渡りフランスとの交渉に当たる。目的はフランスから戦艦を購入することであったとされるが、斉彬の急死により頓挫した。これは琉球王府内部での政変につながっている(牧志恩河事件)。
斉彬の死後は弟の久光の側近となり、引き続き集成館事業に携わり、大砲・火薬製造を担当。文久2年(1862年)以降は琉球通宝、天保通宝の鋳造にも関わった。
維新後は、主に久光の元で島津家に関わる史料の収集に携わった。
明治36年(1903年)2月12日、死去した。享年75(満74歳没)。
人物・逸話
[編集]関連史跡
[編集]著書
[編集]- 「市来四郎日記」(旧大久保利謙蔵書、現鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)
- 「忠義公史料」(※編者。『鹿児島県史料』所収。)
- 「順聖公御言行録」(現在岩波書店より『島津斉彬言行録』と改題の上販売)
- 「島津家国事鞅掌録」
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 【こくみん共済Coop】わたしのふるさと 第3回
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、121頁。
- ^ “日本写真協会:6月1日「写真の日」について”. 日本写真協会. 2019年6月1日閲覧。
- ^ 鹿児島市史跡めぐりガイドブック、五訂版
外部リンク
[編集]- 国立国会図書館 憲政資料室 石室秘稿 - 市来四郎の収集資料
- 『幕末・明治の写真師』総覧