小倉実教
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時代 | 鎌倉時代中期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 文永元年(1264年) |
死没 | 正平4年/貞和5年9月7日(1349年10月19日) |
改名 | 実教→空覚(法名)→阿覚(法名) |
別名 | 号:富小路 |
官位 | 正二位、権大納言、民部卿、兵部卿 |
主君 | 後深草上皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇 |
氏族 | 小倉家 |
父母 | 父:小倉公雄、母:姉小路実世の娘 |
兄弟 | 実教、證季、実覚、季子、惟雲親王母、権中納言冬良室 |
子 | 季孝、季雄、富小路公脩、公煕、教子、洞院公賢室、園基成室、女子、忠房親王妃 |
小倉 実教(おぐら さねのり)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。富小路と号す。権中納言・小倉公雄の長男。官位は正二位・権大納言、民部卿、兵部卿。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 文永3年(1266年)1月5日、叙爵[1]。
- 文永6年(1269年)6月5日、従五位上に昇叙[2]。
- 文永8年(1271年)1月7日、正五位下に昇叙。同年10月13日、侍従に任ぜられる。
- 文永11年(1274年)11月17日、近江権介を兼ね18日には従四位下に昇叙。同月20日、侍従は元の如し。
- 建治4年(1278年)2月8日、讃岐権介を兼ねる。
- 弘安3年(1280年)1月5日、従四位上に昇叙。
- 弘安6年(1283年)4月5日、正四位下に昇叙。
- 弘安8年(1285年)3月6日、左少将に任ぜられる。
- 弘安10年(1287年)1月13日、遠江権介を兼ねる。同年9月21日、左中将に転任。
- 正応元年(1288年)11月21日、従三位に叙される。
- 正応2年(1289年)1月13日、左中将に任ぜられる。
- 正応3年(1290年)11月22日、正三位に昇叙。
- 正応4年(1291年)3月25日、遠江権守を兼ねる。
- 正応5年(1292年)12月30日、参議に任ぜられる。
- 永仁元年(1293年)2月18日、権中納言に転任。同年11月14���、帯剣を許される。
- 永仁2年(1294年)1月6日、従二位に昇叙。
- 永仁3年(1295年)1月5日、正二位に昇叙。
- 永仁5年(1297年)10月16日、中納言に転正。
- 正安元年(1299年)4月26日、権大納言に転任。同年6月6日、権大納言を辞退。
- 正和2年(1312年)12月8日、本座を許される。
- 元応元年(1319年)3月9日、民部卿に任ぜられる。
- 元応2年(1320年)9月5日、民部卿を辞す。
- 嘉暦元年(1326年)3月8日、兵部卿に任ぜられる[3]。同年11月4日、兵部卿を止められる。
- 貞和4年(1348年)2月23日、出家。法名は空覚。後日、阿覚に改めた。
- 貞和5年(1349年)9月7日、薨去。享年86。