寛甸満族自治県
中華人民共和国 遼寧省 寛甸満族自治県 | |
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虎山長城 | |
丹東市中の寛甸県の位置 | |
簡体字 | 宽甸 |
繁体字 | 寛甸 |
拼音 | Kuāndiàn |
カタカナ転写 | クワンティエン |
国家 | 中華人民共和国 |
省 | 遼寧 |
地級市 | 丹東市 |
行政級別 | 自治県 |
面積 | |
総面積 | 6,186 km² |
人口 | |
総人口(2004) | 44 万人 |
経済 | |
電話番号 | 0415 |
郵便番号 | 118200 |
行政区画代碼 | 210624 |
公式ウェブサイト: http://www.lnkd.gov.cn/ |
寛甸満族自治県(かんてん-まんぞく-じちけん、満洲語: ᡴᡡᠸᠠᠨ
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ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠᡳ
ᡯᡳᡷᡳ
ᡥᡳᠶᠠᠨ 、転写:kūwan diyan manju uksurai dzijy hiyan[1])は中華人民共和国遼寧省丹東市に位置する自治県。
歴史
[編集]漢代は西安平県に属し、唐代は安東都護府に属した。渤海にはすでに寛甸子と呼ばれ、のちに興る遼の領土となり、金代には西南隅(現在の古楼子郷大蒲石河口一帯)に婆速路を置き、婆娑府を開設する。明代には、遼東都指揮使司東寧衛に属する。
1877年(光緒2年)、清朝により鳳凰直隷庁の下部に設置された寛甸県を前身とする。中華民国が成立すると1912年(民国元年)に奉天省に移管された。満州国崩壊後の1945年(民国34年)、中国共産党は安東第四公暑和第四軍分区の下に寛甸県人民政府を設置、しかし翌年には中国国民党が実効支配を回復、1947年(民国36年)6月に再び共産党が占領すると県人民政府が再設置され安東省(1949年に遼東省、1954年に遼寧省に移管)の管轄とされた。1989年4月に寛甸満族自治県に改編され現在に至る。
民族
[編集]満族、漢族、朝鮮族、モンゴル族、回族、チワン族、シベ族、ダウール族、ペー族、ミャオ族、ヤオ族、チベット族、トゥチャ族、トン族、オロス族(ロシア人)など18の民族が居住する。うち満族は総人口53%を占める。
満族が寛甸に入ったのは明代の1423年(永楽21年)であり、建州衛の満族の首領・李満住が部下を率いて寛甸の渾江中下流域に定住した。1573年(万暦元年)に寛甸(寛奠六堡)を防衛の為に修築するが、すでに北は満族の杲[2]完顔部、東は王兀堂の董鄂部の支配地域となっていた。1621年(天啓元年)、後金を建国した満族は寛甸を占領、域内の住民を八旗制度に編入する。そして満族は周りの民族と交わるなかで、狩猟や薬草採取から農耕民族に変貌していった。
また、寛甸の朝鮮族の多くは、鴨緑江沿岸の青玉潼、楚山、昌城郡等の住民で、災害による凶作、戦乱などにより川を渡って定住した。
回族は、1879年(光緒5年)、回族の哈広徳が寛甸県の下級役人になり、その一族や知人が移入したことに由来する。
行政区画
[編集]- 鎮:寛甸鎮、灌水鎮、硼海鎮、紅石鎮、毛甸子鎮、長甸鎮、永甸鎮、太平哨鎮、青山溝鎮、牛毛塢鎮、大川頭鎮、青椅山鎮、楊木川鎮、虎山鎮、振江鎮、歩達遠鎮、大西岔鎮、八河川鎮、双山子鎮
- 郷:石湖溝郷、古楼子郷
- 民族郷:下露河朝鮮族郷
交通
[編集]鉄道
[編集]道路
[編集]特産
[編集]特産品は栗、燕紅桃、キノコ、蜂蜜、沿岸牛、公魚、鯉などの農畜産物。英波漁場で養殖された鯉が日本向けに輸出開始された。
観光
[編集]- 中国領の中洲。河口断橋、遊覧船、日本人も宿泊できるホテルもある観光地として整備されている[3]。
脚注
[編集]- ^ http://lnkd.gov.cn/zwgk/view.html?11205
http://n.sinaimg.cn/translate/w465h310/20171130/LbmA-fypikws8819960.jpg - ^ 王杲?
- ^ “北朝鮮にもっとも近いホテル その3 河口断橋”. コリアワールドタイムズ. (2019年1月31日) 2020年5月5日閲覧。
中国地名の変遷 | |
建置 | 1877年 |
使用状況 | 寛甸満族自治県 |
清 | 寛甸県 |
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中華民国 | 寛甸県 |
満洲国 | 寛甸県 |
現代 | 寛甸県 寛甸満族自治県(1990年) |