安帝 (東晋)
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安帝 司馬徳宗 | |
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東晋 | |
第10代皇帝 | |
王朝 | 東晋 |
在位期間 |
太元21年9月21日 - 元興2年12月3日 (396年11月7日 - 404年1月1日) 元興3年5月26日 - 義熙14年12月17日(404年6月19日 - 419年1月28日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 司馬徳宗 |
字 | 徳宗 |
諡号 | 安皇帝 |
生年 | 太元7年(382年) |
没年 |
義熙14年12月17日 (419年1月28日) |
父 | 孝武帝 |
母 | 陳淑媛 |
后妃 | 安僖皇后王氏 |
陵墓 | 休平陵 |
年号 |
隆安 : 397年 - 401年 元興 : 402年 - 404年 大亨 : 402年 義熙 : 405年 - 418年 |
安帝(あんてい)は、東晋の第10代皇帝。孝武帝の長男。諱・字は徳宗。重度の知的障害によりその治世においては国政を執り行う事ができず、臣下たちの権力闘争を許し、安帝自身も翻弄され続けた末に、最後はのちの南朝宋の武帝劉裕の手に掛かって暗殺された。
生涯
[編集]一切の意思表示ができないという重度の知的障害者であったが、太元12年(387年)に皇太子に封じられた。太元21年(396年)、父の孝武帝が崩御した後、皇帝として擁立された。安帝自身は政治を行なえず、最初は叔父であり太傅の司馬道子がその子の司馬元顕と共に専横した。隆安年間、王恭が挙兵してから敗死し、孫恩の乱が勃発すると、東晋は衰亡し始めた。
元興元年(402年)、司馬道子父子が桓玄の反乱により殺されると、翌元興2年(403年)には桓玄に禅譲を迫られて帝位を追われ、平固王に降格された上で身柄を連れ去られた。永始2年(404年)、劉裕らの挙兵により「楚皇帝」桓玄が殺され復位するも、その直後に桓楚の残党をまとめた桓振により江陵が占拠されるとまたも身柄を捕えられ[1]、あまつさえ殺害されかけるという有様であった[2]。桓振の敗死によりようやく再び建康に戻る事ができたが、今度は桓楚の打倒に際し功を挙げた劉裕らの専横を許すことになった。
そして義熙14年12月戊寅(419年1月28日)、劉裕の命を受けた中書侍郎の王韶之により、宮中の東堂で暗殺された[3]。享年は37歳。なお『宋書』には暗殺されたとの記述はなく、武帝本紀中において「(義熙十四年)十二月、天子崩」と記されたのみである。
弟の司馬徳文(恭帝)が帝位を継いだ。
宗室
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后妃
[編集]脚注
[編集]伝記資料
[編集]- 『晋書』巻10 帝紀第10 安皇帝