四条貞子
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四条 貞子(しじょう さだこ、藤原貞子(ふじわら の さだこ)、建久7年(1196年) - 正安4年10月1日(1302年10月22日))は、鎌倉時代の貴族女性で、西園寺実氏の正室。父は権大納言四条隆衡、母は坊門信清の女。子に西園寺姞子・西園寺公子、孫には後深草天皇・亀山天皇、曾孫には伏見天皇・後宇多天皇・久明親王(鎌倉幕府将軍)などがいる。准三宮。今林准后。当時としては異例の長寿を保ち(数え年107歳で薨去)、晩年には北山に壮麗な邸宅を構えて北山准后といわれた。
経歴
[編集]父隆衡の母は平清盛の女(建礼門院の同母妹)であり、清盛の曾孫にあたる。同母弟に隆親、姉妹に灑子(儷子とも、二条良実室)・親子(西園寺公基室)。
西園寺実氏の室となり、嘉禄元年(1225年)に姞子(後の後嵯峨天皇中宮・大宮院)を、貞永元年(1232年)に公子(後の後深草天皇中宮・東二条院)を生む。
弘安5年10月8日(1282年11月16日)自身の死後の冥福を祈った逆修供養を行い、その願文が現存している(伝世尊寺経尹筆、東京国立博物館蔵、重要文化財[1][2])。
弘安8年2月30日(1285年4月13日)の九十の御賀の華やかな様子が『増鏡』や『とはずがたり』巻第三に詳しく述べられている。
正安4年(1302年)10月1日に107歳で薨去。建久・正治・建仁・元久・建永・承元・建暦・建保・承久・貞応・元仁・嘉禄・安貞・寛喜・貞永・天福・文暦・嘉禎・暦仁・延応・仁治・寛元・宝治・建長・康元・正嘉・正元・文応・弘長・文永・建治・弘安・正応・永仁・正安の35の元号を生きたことになる[注釈 1]。
脚注
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