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吉田重信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉田重信
時代 江戸時代前期
死没 寛文2年5月15日1662年6月30日
別名 重春、久馬助
戒名 一心(法名)
墓所 谷中玉林寺
幕府 江戸幕府
主君 秀忠家光家綱
氏族 宇多源氏佐々木氏吉田氏
父母 吉田重氏吉田重綱の女
兄弟 重信、三右衛門、重好、重儀
某氏
重宗、弥兵衛[注釈 1]
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吉田 重信(よしだ しげのぶ)は、江戸時代前期の武士弓術家(日置流印西派)。

略歴

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弓術家で日置流印西派を興した吉田重氏(一水軒印西)の子[2]寛永4年(1628年)12月16日、酒井忠世酒井忠勝[注釈 2]の推挙により大御所徳川秀忠に拝謁し、召されて旗本に列した[2][注釈 3][注釈 4]

寛永20年(1643年)4月22日、浅草三十三間堂の落成の際に射初め(いぞめ)するよう命ぜられた[2]明暦2年(1656年)4月23日、江戸城二の丸において番士らの大的上覧があり、これを差配した[5]寛文2年(1662年)5月15日、死去[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 御家人(先手組与力)。4代後の吉田佳国が旗本に昇格。[1]
  2. ^ いずれも当時、将軍家光付きの年寄衆。
  3. ^ 本朝武芸小伝では秀忠及び将軍家光に拝謁したとある[3]
  4. ^ 寛政譜に重信の知行についての記載はないが、嫡男重宗は重信存命中の正保4年(1648年)12月27日に大番に列し、廩米200俵を賜っている。以後の子孫も同様に廩米200俵。[4]

出典

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  1. ^ 堀田 1923, p. 245.
  2. ^ a b c d 堀田 1923, p. 244.
  3. ^ 日夏 1716, p. 40.
  4. ^ 堀田 1923, p. 244-245.
  5. ^ 神宮司庁 1930, p. 145.

出典

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  • オープンアクセス日夏繁高、1920、『本朝武芸小伝』、大日本武徳会本部 (原著1716年) doi:10.11501/927114 全国書誌番号:43000365
  • オープンアクセス堀田正敦 編「巻第四百三十一 宇多源氏(佐々木庶流) 吉田」『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜』 第3輯、國民圖書、1922年12月30日。全国書誌番号:21329093https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/131 
  • オープンアクセス神宮司庁 編「武技部二 射術」『国立国会図書館デジタルコレクション 古事類苑』 第25冊、古事類苑刊行会、1930年。全国書誌番号:67012547https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874244/82