コンテンツにスキップ

勝間田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

勝間田氏(かつまたし、かつまたうじ)は日本氏族の一つである[1]。本貫を遠江国蓁原郡勝田(静岡県牧之原市)の勝間田川流域一帯とする[1]。勝田、勝間、勝俣などの異表記もある[1][注釈 1]

歴史

[編集]

出自については諸伝あり、藤原南家工藤氏の系統とする説[注釈 2]桓武平氏平良文の系統とする説などがある[1]横地氏と同族とも[4]

保元の乱(1156年)の際に源義朝勢の家人として「遠江国の勝田」として言及があり、古くから源氏にしたがってきた一族とみられる。鎌倉時代には勝間田城(牧之原市)に拠った[1]

室町時代には応永の乱(1399年)や永享の乱(1438年 - 1439年)では、室町幕府方の勢力として登場する[5]文明8年(1476年)に駿河国今川義忠が遠江に進出すると、勝間田氏や横地氏は今川氏に抵抗して敗れ、滅亡したという[5]清浄寺が菩提寺と伝わる[5][注釈 3]

この後、残党は一族の勝間田修理之亮(伊野八郎)とともに富士山の東の裾野へ落ち延びた。そこで林野を拓いて土着し、「伊野」が転訛して「印野村」(現在の御殿場市印野、東富士演習場の隣接地)となったという[6][7]。御殿場市周辺には異表記を含めた「カツマタ」姓が多い[8]

関連人物

[編集]
  • 勝田(かつまた)成長[4] - 鎌倉時代初期の御家人。文治2年(1186年)に玄蕃助に任じられた記録がある[1]。勝田平三郎成長[4]、勝田三郎[1]、勝田平三[1]とも。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 平安時代に成立した『和名類聚抄』では、この地は「加知末多」または「加都万多」と表記されている(写本によって字が異なる)。一説では、「加都万」は湿地帯の植物の名をさし、この地の地勢に由来するという。後に「勝田」と表記するようになりこれを「かつまた」と読んだ。「勝間田」とも書いた。江戸時代には勝間田村として続いたが、明治時代になって村を編成するにあたり、かつての勝田郷の隣り合う2村のあいだでどちらが「勝間田村」を称するか論争になり、一方が「勝田村」、もう一方が「勝間村」とすることで決着した。両村はのちに合併し勝間田村となった[2]
  2. ^ 源義家と工藤維頼(相良氏)の娘の間に生まれた横地太郎家長の長男・頼兼が横地氏を、次男が勝間田氏を興したという伝承がある[3]
  3. ^ 落城後、駿河にひきあげる今川義忠を勝間田氏らの残党が奇襲、今川義忠は流れ矢に当たって落命したという。これにより今川家では家督争いの内乱に陥った[5]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 平凡社,『世界大百科事典 第2版』,コトバンク版 2018年5月13日閲覧。
  2. ^ 『角川日本地名大辞典22 静岡県』,p287-288「勝田」、「勝間」、「勝俣」、「勝間田」、「勝間田川」
  3. ^ 静岡県史跡 勝間田城” (PDF). 牧之原市. 2024年10月25日閲覧。
  4. ^ a b c 『静岡大百科事典』,p163「勝間田城跡」
  5. ^ a b c d 牧之原市観光協会,勝間田氏 (今川氏と対決した豪族) 2018年5月14日閲覧。
  6. ^ 『静岡大百科事典』,p163「勝間田」
  7. ^ 『角川日本地名大辞典22 静岡県』,p156「印野」
  8. ^ カツマタさん|2018年7月28日|出没!アド街ック天国”. テレビ東京. 2022年1月27日閲覧。
  9. ^ 講談社,『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』,2015,コトバンク版 2018年5月13日閲覧。
  10. ^ 朝日新聞出版,『朝日日本歴史人物事典』,1994,コトバンク版 2018年5月13日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]