利用者:Quark Logo/sandbox3亀甲船・再構成
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亀甲船(亀船) | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 거북선 |
漢字: | 亀甲船 |
発音: | コブッソン |
ローマ字: | Geobukseon |
M-R式: | Kŏbuksŏn |
亀甲船(きっこうせん、きこうせん、朝鮮語読み;コブッソン、거북선、英: Turtle Ship)は、李氏朝鮮時代に存在したとされる朝鮮水軍の木造軍船である。亀が伏した外形をしていたと言うため、日本では一般に「亀甲船」の通称が用いられているが、本来は「亀船」と呼ばれる船であった。
16世紀末の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)において李舜臣が用いたとされるが、史料が極めて少なく、遺物も存在しないため、従来より存在自体を疑問視する説もあリ、実像については異説が多い。
史料
[編集]亀甲船は、複数の史書にその名が記されている軍船であるが、現存する船体がない上に、具体的な史料となると記録が乏しく、これらが考証を難しくしている。
亀船についての記述が初めて登場するのは15世紀の『太宗実録』である[2]。 しかし『太宗実録』には僅かな記述しかなく、衝角船のような記述がある程度である。より具体的な内容が語られているのは『乱中日記(乱中雑録)』や『唐浦破倭兵状』、『李舜臣行録』または『李忠武公全書(忠武公戦書)』であるが、これらは李舜臣かその甥・李芬が書いたとされるものを纏めたもので、基本的には出典が同一かそれに近いと考えられる書物である。
また太宗実録に登場する亀船と李舜臣の時代とは、約180年も時間が経過しており、同名とは言え、同種の船として扱ってよいものかどうかはよくわかっていない。別の物とする説もある。上記の書籍においては「別製亀船」や「創作戦船」「創智作大船」と表現されており、「亀甲船は李舜臣が改良した」とか「亀甲船は李舜臣が発明した」とか言う説の根拠となっている。創作と主張しているのは建造には携わっていないはずの李芬であり、前者の方がどちかといえば有力と考えられている[3]が、どちらも証明することが不可能である。崔南善のようにそもそも開発まで何もかも李舜臣の功績にするべきではないという学者もいた。
18世紀末、正祖が編纂を命じた李忠武公全書は、それまでにあった史料を全て集めたもので、一級資料とされているが、亀甲船(亀船)についてはそれでも2図と694字の説明[4]があるだけである。(下記参照) 記述は、現代人には理解しがたい韓船の常識に則って書かれていて、軍船として実際にはどんなものだったのか、内容を理解して再現する上では不足する情報もあった。編纂された時点ですでに李舜臣の時代の���甲船がどういうものだった分からなくなっていたようであり、推測や伝聞の内容も含まれていた。結果として詳細を明らかにできなかったので、実在自体に疑問が持たれるようにもなった。
一方、豊臣秀吉による文禄・慶長の役で実際に運用されたとされるが、日本側の記録には”亀”を伺わせるような特殊な敵船の記述は全く登場しない。もちろん朝鮮側の記録にも、最初に3隻造りその後2隻造っただけで(戦役中には)合計5隻あったと書かれているに過ぎないし、実戦には2~3隻が投入されただけのようであるから、亀甲船が記述の通りに実在するとしてもその程度の希少船であれば、日本側の記録者が遭遇しなかったとしても不思議ではないとは言える。
日本側の記録で、辛うじて、これは亀甲船のことではないかと伺わせる記述は、安骨浦海戦について言及していると思われる『高麗船戦記』[5] にあり、登場する3隻の盲船(めくらぶね)[6]は亀甲船のことだという説は従来からあった。1885年(明治18年)に出された『朝鮮軍記』は、高麗船戦記と李忠武公全書の内容を合わせて解釈して、李舜臣の亀甲船は日本で云う盲船であるとしている[7]。しかし出典となる高麗船戦記は、外岡甚左衛門という正体不明の人物が書いたもので、信憑性に疑問があって、はっきりしない。日本の書籍ではっきりと亀甲船が登場する最も古いものは、1797年の絵本太閤記であると言われている。しかし朝鮮軍記もであるが、これらは読本(=フィクションを含む)であり、朝鮮出兵の部分は李忠武公全書(日本でも漢文で出版)など他の書物の内容をそのまま引き継いだものなので、史料としての価値はないものであった。
亀甲船は、その後の時代により多く建造されたが、鎖国状態だった李氏朝鮮は海洋で争うことがほとんどなく、造られた亀甲船が活躍することもほとんどなかった。むしろ派手な外見が国威発揚など示威的用途で用いられていたようである。存在が疑問視されるとしても、それは文禄・慶長の役で亀甲船が用いられたかどうかであり、粛宗から純祖までの約200年間、朝鮮水軍に亀甲船が配備されていたのは疑いようがない。しかし朝鮮末期はすでに19世紀半ば、世界は近代に達していたのであり、300年以上に渡って亀が伏したような姿の軍船が用いられていたことは、朝鮮水軍の奇異な特徴であったと言える。
運用
[編集]文禄の役
[編集]亀甲船の構造
[編集]亀甲船の構造についは李忠武公全書の図説の説明に言及がある。2図は冒頭の右上にあるものである。原文には改行はないが、区切りを分かりやすくするために、下記には内容により行を変えた。
龜船之制底版 俗名本版 聯十 長六十四尺八寸 頭廣十二尺 腰廣十四尺五寸 尾廣十尺六寸
左右舷版 俗名杉版 各聯七 高七尺五寸 最下第一版長六十八尺 以次加長 至最上第七版長一百十三尺並厚四寸
— 尹行恁, 李忠武公全書・圖説亀船(改行等編集あり)
艫版 俗名荷版 聯四 高四尺 第二版左右穿玄字礟穴各一
舳版 俗亦名荷版 聯七 高七尺五寸 上廣十四尺五寸 下廣十尺六寸 第六版正中穿穴經一尺二寸 揷舵 俗名鴟
左右舷設欄 俗名信防 欄頭架橫梁 俗名駕龍 正當艫前 若駕牛馬之臆 沿欄鋪版 周遭植牌 牌上又設欄 俗名偃防 自舷欄至牌欄 高四尺三寸 牌欄左右 各用十一版 俗名蓋版又龜背版 鱗次相向而覆 罅其脊一尺五寸 以便竪桅偃桅
艫設龜頭 長四尺三寸 廣三尺 裏爇硫黃 焰硝 張口吐煙如霧以迷敵
左右櫓各十
左右牌各穿二十二礟穴 設十二門 龜頭上 穿二礟穴 下設二門 門傍各有一礟穴 左右覆版 又各穿十二礟穴 揷龜字旗
左右鋪版下屋各十二間 二間藏鐵物 三間分藏火礟弓矢槍劍 十九間 爲軍兵休息之所 左鋪版上屋一間 船將居之 右鋪版上屋一間 將校居之 軍兵休則處鋪版下 戰則登鋪版上 納礟于衆穴 粧放不絶
按忠武公行狀云 公爲全羅左水使 知倭將猘 創智作大船
船上覆以版 版上置十字細路 以容人行 悉以錐刀布之
前龍頭後龜尾 銃穴前後左右各六 以放大丸
遇賊則編茅覆上 以掩錐刀而爲先鋒 賊欲登船則離錐刀 欲來掩則一時銃發 所向莫不披靡 大小戰 以此收績者甚夥
狀如伏龜 故名龜船
皇明華鈺海防議云 朝鮮龜船 布帆竪眠惟意 風逆潮落 亦可行 卽指公所創之船也
然而並未詳言 其尺度 今統制營龜船 盖出於忠武舊制 而亦不無從而損益者 公之創智制船 寔在於全羅左水營 而今左水營龜船 與統制營船制 略有異同 故付見其式于下
全羅左水營龜船 尺度長廣 與統制營龜船略同 而但龜頭下 又刻鬼頭 覆板上 畫龜紋 左右各有二門 龜頭下礟穴二 舷板左右 礟穴各一 舷欄左右 礟穴各十 覆板左右 礟穴各六 左右櫓各八
これは奎章閣の尹行恁という人物が編纂したものであるが、李舜臣の時代から200年後であり、厳密には正祖年間の亀甲船の説明であると思われる。末尾に李舜臣の時代の亀甲船はこうだったのではないかという言及もある。かなり長いので全訳は引用せずに、特徴だけを下にまとめる。
また一般に亀甲船は全く新しい新兵器であるかのように理解されているが、李忠武公全書に書かれている内容を、韓船の歴史と照らし合わせてみると、
- 李舜臣行録
- 「亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦艦)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」、「前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ」、「戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後から一斉砲火をやられた」
装備・武装
[編集]異説
[編集]鉄甲船説
[編集]潜水艦説
[編集]兵法神武雄備集
山鹿素行著
慶安4 [1651]序
再現船
[編集]問題のある鉄板船
[編集]水上実験された再現船
[編集]
実像と虚像
[編集]亀甲船に対しては当時の朝鮮海軍の動向と同じくらい韓国国内で関心が高く、研究の対象となっている。なぜならば日本軍の唐入りの際、朝鮮半島に攻め寄せる、日本水軍を迎撃する為に用いられた船であり、愛国感情を高揚させる存在だからである。
ただ、それが行き過ぎた結果、亀甲船の研究はしばしば現実離れした結論やあり得ない推測が出される事がある。実際には「亀甲船は世界初の装甲艦であった」や「日本海軍を撃破した」等の説は立証されていない俗説である。
現在、(右上の写真にある)復元され韓国の鎮海に展示されている亀甲船はこれら架空の設定を反映した装甲艦であり、設計した人物が史書の「李忠武公全書」にある約700字程度の記述と絵図を現代の造船学に当てはめて無理矢理解釈したものである事から、実在した亀甲船とは大きく異なる軍艦であったと思われる。
現実の亀甲船は不明
[編集]現実の亀甲船は、絵のようなものが存在したと仮定するならば、木造船の一種で手漕ぎの突撃艇であると推測することは可能である。史書の「李忠武公全書」に装甲艦であると指摘できる記述が存在しない事からも装甲艦とは見なすことはできない。帆があるともないともいわれるが、天蓋の上部に足場がほとんどないという記述から、いずれにしても戦闘中は帆の操作はできなかったと思われ、漕走に頼ったものと推測される。渡洋能力については不明で、沿岸部でしか行動できなかったであろうという推測もある。史書で亀甲船が登場する海戦はどれも浅瀬の多い場所であった。
また李舜臣が造らせたとする建造数がわずか5隻であったことからも、その用途が非常に限られていた可能性が指摘される。同じ史書の内容では、明・朝鮮水軍は数十から数百隻を動員しており、保有艦船の中の亀甲船の比率は著しく低い。これは日本水軍を撃退したのが亀甲船のおかげではなかったことを示唆する。
内外の批判が絶えないため、韓国では実際の亀甲船を発見しようという考古学的な試みが何度か行われている。2008年には、韓国企業が共同出資した資金を基にして韓国海洋科学技術など3つの機関がコンソーシアムを形成し、七川島周辺の海域を探査した。しかし16世紀の遺物を見つけるだけでも困難であり、今のところ調査は成果を上げていない。
その他
[編集]観光用として
[編集]現在、昌原市鎮海区の海軍士官学校博物館で研究者らにより、想像に基づいて創作された亀甲船が展示されている。同海軍士官学校の学生は、在学中に一度は必ず亀甲船での航海を体験し、創作と歴史が入り交じった架空設定の伝統を学ぶ。毎年、桜の花が咲く十日間の軍港祭期間中のみ一般公開されており、十人程度の一般客が乗り込む事ができるようになっている。
韓国では、歴史研究というよりも、地方の観光の目玉として亀甲船を復元しようという動きが多く、時代考証は軽視されている。2011年には新説に基づいて3階構造の亀甲船と板屋船など4隻が新造された[8]。
2013年1月、巨済島に運ばれて水上展示される予定だった亀甲船の想像による再現船が、曳航中に沈没した。製作費は7億ウォン以上を要したとされる[9]。
ゲーム等の創作物
[編集]- エイジ オブ エンパイア シリーズ等の歴史シミュレーションゲームではそれらの想像や設定が反映されている例もあり、往々にして高性能を誇る強力な軍艦として登場している。
脚注・出典
[編集]- ^ 金 & 桜井 2001, pp.66-67
- ^ 太宗実録は朝鮮の歴史書で、太宗の治世に起こったことを後年編纂したものである。元来、朝鮮宮廷の秘録ということで民間には流布を許さなかった。このため、実録は多くが後世に残ることができなかった。
上過臨津渡觀龜船倭船相戰之狀
訳:臨津江を渡って行幸され、亀船と(演習のために仕立てた)和船が戦うのをご覧になられた。
— 『太宗実録』十三年(1413年)二月五日甲寅其六龜船之法衝突衆敵而敵不能害可謂決勝之良策更令堅巧造作以備戰勝之具
訳:(卓愼の進言の箇条書き)その六、亀船が多数の敵の中に飛び込んで衝突する戦術は、敵は反撃できないので、勝敗を決する良い計略である。戦いに勝つ軍備として、さらに堅固で巧妙に造るように命じなければならない。
— 『太宗実録』十五年(1415年)七月十六日辛亥 - ^ 金 & 桜井 2001, pp.45-46
- ^ 金 & 桜井 2001, p.227
- ^ “高麗船戦記”. 東京大学駒場図書館・情報基盤センター (2011年2月21日). 2014年4月27日閲覧。下記にある大隅守は九鬼嘉隆のこと、左馬は加藤嘉明のことで、「鬼宿舩」は巨大な安宅船の日本丸のことである。ちなみにこの記述では、安骨浦海戦は日本軍が被害を出しつつも朝鮮水軍を撃退したとなっていて、両将の武運が神懸り的だと称賛されている。九日ノ辰ノ刻ヨリ敵大舩五十八艘其外小舩五十艘モッテ責懸候
大舩ノ内三艘目クラ舟鉄ニテ要害シ石火矢ハウ石火矢大狩俣等ニテ辰ノ刻ヨリ酉ノ刻迫入カヱリテ責ル
— 外岡甚左衛門, 高麗船戦記(抜粋)
矢倉ヲ亡ラウカヲモ足カクシテ要害ヲモ悉ク打破候彼石火矢トイフカ堅木長サ五尺六尺マワリ八寸
壱尺ナルハツモトヲ鉄ニテハリ羽ヲモ三方ヘ鉄ニテツケサキニハ大狩俣手ノヒロキ事壱尺二三寸也
扨バウ火矢先ヲ鉄ニテ久ク丈夫ニハリ候如此ノ矢ヲ以テ五間三間ノ内ヘマチカクヨッテ責懸候ヘノ
矢倉ニ大隅守殿御座候鉄砲御ハナシ候ニ石火矢一ツモアタラス是不思儀成号事ソカシ
鬼宿舩左馬ノ大舩トヲ面ニカケ小舩共ハ其内ニ懸置イヅレモ鉄砲ヲ御ウチ候鬼宿舩左馬ノ大舩打差取
御舟ヨリ大筒ニテ散々ニ御打候故手負死人数出来候其侭島々ヘ行退候
鬼宿舩ニモ手負死人数多候間其夜ノ内ニ釜山浦ヘ御帰陣候
然ハ敵舩取懸候ハン前日ノ八日ノ晩ニ梶ヲリホソクチナワノル是ハ神慮吉例カト皆人イフまたこの『高麗船戦記』の内容をもう少しわかりやすく書いている記述が、野村銀次郎の『朝鮮軍記』の中にあるので下記の参考文献を参照。
- ^ 船上の四方をすべて防板で囲い、天井も塞いだ軍船のこと。視界が悪いことからこう呼ばれる。また歴史学者西村眞次によると、亀のような形をした盲船は日本にもあり、村上水軍が所持していたことを伺わせる絵図があるという。
- ^ 野村 1885, p.193
- ^ “3階構造の亀甲船を復元して観光商品に”. 中央日報. (2009年12月11日)
- ^ “거제 오던 ‘거북선’ 여수 앞바다서 침수”. newsgn. (2013年1月15日)
参考文献
[編集]- 李舜臣(漢文)『国立国会図書館デジタルコレクション 李忠武公全書』1795年 。
- 朝鮮史編修会『国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮史. 第四編第九巻』朝鮮総督府、1937年 。
- 朝鮮史編修会『国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮史. 第四編第十巻』朝鮮総督府、1937年 。
- 野村銀次郎『国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮軍記』1885年 。
- 金在瑾; 桜井健郎(訳)『亀船』文芸社、2001年。ISBN 483551601X。
関連項目
[編集]外部リンク
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