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兪平伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
兪平伯
出身地: 江蘇省蘇州府呉県
職業: 詩人作家、文学研究者
各種表記
繁体字 俞平伯
簡体字 俞平伯
拼音 Yú Píngbó
和名表記: ゆ へいはく
発音転記: ユー・ピンボー
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兪 平伯(ゆ へいはく、1900年1月8日 - 1990年10月15日)は、現代中国詩人・作家・『紅楼夢』研究家である。末の大学者である兪樾の曾孫にあたる。

平伯は。名は銘衡(めいこう)、幼名は僧宝室名は古槐書屋。

生涯

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兪平伯の本貫浙江省湖州府徳清県であるが、1900年1月8日(光緒25年12月8日)に蘇州府呉県の馬医科巷の曲園春在堂で生まれた。曾祖父の兪樾は清末の高名な学者である。祖父は兪祖仁。父の兪陛雲は探花の成績で科挙に合格した。このような環境で育ったため、兪平伯は幼いころから古典文化の薫陶を受けて育った。1915年に北京大学予科に入学した。1917年に杭州の才女の許宝馴と結婚し、その影響で崑曲に親しみはじめた。兪平伯は在学中に文学革命に参加した。1918年5月に初の新詩「春水」を『新青年』第4巻第5号(魯迅の「狂人日記」が発表されたのと同じ号)に発表し、中国の口語詩の先駆者のひとりとなった。また、傅斯年羅家倫らとともに新潮社を創立した。1922年には朱自清らと『詩』月刊を創刊した。その後、『冬夜』などの詩集を次々に出版した。

1919年12月に兪平伯は北京大学を卒業した。1920年にイギリスに留学したが、資金不足が判明したためにすぐさま帰国した。浙江省の視学(教育行政官)の職につき、教育視察の目的で1922年にアメリカ合衆国カナダを短期間訪問している。

1923年に兪平伯は『紅楼夢弁』を出版し、『紅楼夢』は最初の80回だけが曹雪芹の作で、残り40回は高鶚によって書かれたと考証した。兪平伯は胡適とならんで紅楼夢研究の草分けのひとりとなった。1925年から燕京大学で教え、また朱自清清華学校に紹介した。1928年には清華大学に移った。1935年に清華園の自宅で「清華谷音社」を創立し、崑曲の普及につとめた。

兪平伯は周作人の強い影響を受け、詩から散文へと創作の中心を移していった。兪平伯は周作人らの『語絲』に投稿し、また1930年に創刊された『駱駝草』散文週刊では周作人・廃名中国語版とともに中心的な人物だった。

日中戦争中は北京にとどまり、私立の中国大学で教えた。

1946年に北京大学の教授に就任した。中華人民共和国成立後もひきつづき北京大学にあった。1953年には中国科学院文学研究所の古典文学研究室に入って、旧著の『紅楼夢弁』を改訂して『紅楼夢研究』の名で出版し、また「紅楼夢簡論」(『新建設』1954年3月)などを発表した。

1954年に藍翎・李希凡という2人の若い研究者が後者を批判する論文を山東大学の学術雑誌『文史哲』の1954年第9期に発表した。毛沢東はこの論文を支持して、みずから「兪平伯の紅楼夢研究」と「胡適の反動思想」に反対する全国的な政治大批判を開始した[1]。『紅楼夢研究』批判は当時の有名な事件であった。文化大革命で兪平伯は再び迫害を受け、河南省息県の五七幹部学校に送られて労働をさせられた。

1990年10月15日に北京市西城区月壇街道三里河南��溝の自宅で没した。90歳の高齢だった。

本貫の徳清県に兪平伯記念館が建てられている[2]

作品

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  • 紅楼夢弁』(1923年初版、1953年に『紅楼夢研究』と改題して再版)
  • 詩集:『冬夜』(1922年)、『古槐書屋間』、『西還』(1924年)、『憶』(1925年)
  • 散文集:『燕知草』(1928年)、『雑拌児』(1928年)、『雑拌児之二』(1933年)、『古槐夢遇』(1936年)、『燕郊集』(1936年)
  • 『唐宋詞選釈』
  • 孫玉蓉主編『兪平伯全集』(1998年出版)

評価

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  • 聞一多は1923年に兪平伯の詩を批評する「『冬夜』評論」を発表した。
  • 銭鍾書の『宋詩紀事』批注にいう:「痴人が本当の事だと思って句の下に死に、愚か者となるのは、読書することが少なく、一隅にとらわれて深く通じることができないからである。兪曲園(兪樾)の不肖の孫輩が小説の本事を考訂するのは即ち『痴人の前に夢を説き得ず』であり、『紅楼夢』は一層説き得ない」[3]

脚注

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  1. ^ 張隆渓によると「1949年以前、彼(銭鍾書)は兪平伯先生の『紅楼夢弁』に学術的角度から批評を提出した。しかし50年代には全国で兪平伯『紅楼夢研究』を非常に激しく批判する運動が起き、『紅楼夢』をよく知りもしないか、はなはだしくは全く知らない人が、一夜にして紅楼夢研究家に変じて、兪平伯を口や筆で非難するのであった。銭先生によると、あの政治的で学術的でない「紅楼夢批判」中には『銭某の字はなかった』のだった。」(張隆渓「懐念銭鍾書先生」、『万象』1999年5月号)
  2. ^ 兪平伯紀念館開館”. 湖州文学网 (2015年6月21日). 2016年2月2日閲覧。
  3. ^ 欒貴明整理『宋詩紀事補正』第七冊影印に見える銭鍾書の手迹

外部リンク

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