乾安儔
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 四郎兵衛 |
主君 | 津軽為信→信枚 |
氏族 | 乾氏 |
子 | 安俊 |
乾 安儔(いぬい やすとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。津軽氏の家臣。
略歴
[編集]元々は上方の出身と伝わる。津軽為信に仕えた。慶長13年(1608年)、藩内の御家騒動である津軽騒動の際には、津軽大熊の叔父で豪勇で知られた一戸清三郎(一戸兵庫之助の長男)を自宅へ招き、騙し討ちにして殺害する功を上げる。
慶長17年(1612年)、高坂蔵人が南部へ脱藩を企てた際(高坂蔵人の乱)には、城内で安儔を初めとする5人で討ち取った。寛永2年(1625年)の青森港開港では、行政責任者の一人として尽力。寛永5年(1628年)7月には百沢寺(現・岩木山神社)山門作事奉行、寛永6年(1629年)7月には長勝寺三門作事奉行を務めた。
寛永11年(1634年)の船橋騒動では新参組の船橋長真に味方したため、幕府裁定により寛永13年(1636年)、伊予松山の松平定行お預けとなった。
なお、津軽氏墓所である東京上野の津梁院の津軽信枚の墓前の石灯籠は、安儔が献じたものだという。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社