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乃木静子

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乃木静子

乃木 静子(のぎ しずこ、安政6年11月6日1859年11月29日〉 - 1912年大正元年〉9月13日)は、幕末から明治期にかけての女性で、陸軍大将乃木希典の妻。

生涯

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生誕地(鹿児島市甲突町)

安政6年(1859年11月6日鹿児島藩医・湯地(ゆち[1][2])定之と貞子夫妻の4女(7人兄弟姉妹の末っ子)として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在塩屋村(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)に出生。幼名お七、またはお志知

明治5年(1872年12月2日数え14歳の時に海外留学から帰国した長兄・定基に呼び寄せられる形で家族揃って東京赤坂溜池2番地の湯地定基邸に転居し、麹町区の麹町女學校(現・千代田区立麹町小学校)を��業した[3]

陸軍軍人伊地知幸介野津鎮雄らの勧めにより、躊躇しながらも数え20歳で乃木希典と結婚。「静子の方が希典に対して興味・想いを持っていた」とされる文献もあるが、これは間違いである。事実は逆で、希典の方が「鹿児島の女子しか嫁に貰わぬ」と述べている。

長男・勝典を始め、4人の子宝に恵まれるが、勝典と次男・保典を残し、下の二人は生後、間もなく夭折する。新婚当時は生活も厳しく、貧しい生活をしている上に姑・壽子(ひさこ、久子表記での文献有り)との確執もあり、苦労・苦悩が続き、1年半ほど勝典・保典を連れて別居している。

日露戦争が開戦すると、出征する希典(出征時は陸軍中将)・勝典・保典(2人とも出征時は既に陸軍少尉)に銀座の高級化粧品店・資生堂で1つ9円もする香水2つと8円の香水1つの計3つを購入して贈った。当初、静子は9円の香水を3つ購入して3人にそれぞれ贈るつもりだったが、9円の香水が2つしかなかったため、9円の香水を勝典と保典に、8円の香水を希典に贈った。当時の9円というのは、成人女性が精一杯働いて稼ぐことの出来る平均給与の約2か月分に相当する。静子がそこまでして高価な香水を贈ったのは、もし戦死した後、遺体から異臭が放たれれば夫と愛息が不憫この上ないという妻として、母親としての哀しいまでの家族を想いやる愛の表現であった。

1904年(明治37年)5月27日、勝典が金州南山(通称:金山または南山)で銃弾に打たれて腸を損傷、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、軍医による手術・治療を受けるも出血多量で戦死した(死後、1階級特進で陸軍中尉に昇進)。この後、勝典の戦死の知らせを聞いた静子は深い哀しみに暮れ、三日三晩泣き続け、一説には血の涙を流したともいわれる(恐らくは血を流しているかのように見えるほど赤く泣き腫らした顔を指しているものと想われるが、実際に血の混じった涙を流したと記す文献もあり、真偽は不明)。

1904年(明治37年)11月30日、苦戦を強いられていた帝国陸軍は第3軍司令官・希典と児玉源太郎大将の戦略で203高地を進軍していたが、この時に保典が砲弾に撃たれたショックで岸壁から滑落、岩場に激突し、頭が砕けて戦死した(即死。保典も勝典と同じく、1階級特進で陸軍中尉昇進)。不思議なことに、保典が戦死したという知らせを聞いた時、静子は何故か勝典が戦死した時のようには泣き崩れず、落ち着いた様子で戦死の事実を受け入れたという。一説には保典が戦死する事を予知していたのではないかとも言われる。

全ての子供を先に亡くした静子は、そのショックから生きた感じを見受けられないような外見になっていたといわれる。晩年は盆栽などをわずかな楽しみとしたといわれる。

自決当日の乃木夫妻
乃木夫妻が自刃した部屋
乃木希典(右)と静子の墓

1912年(明治45年)7月、明治天皇糖尿病により崩御、その後の1912年(大正元年)9月13日、明治天皇を追って殉死した夫・希典と共に東京市赤坂区新坂町(現:東京都港区赤坂八丁目)の自邸にて胸を突き死亡した。享年54(満52歳)。

夫・希典の遺書には、死後のことで不明な点は静子に聞くよう記されていた[4]。すなわち希典は、遺書を書いた時点では静子が自分と共に死ぬことを想定していなかった[4]。しかし、静子は前述の通り4人の子供全員に先立たれたショックから立ち直ることができず、夫と共に死ぬ道を自ら選んだのではないかとも言われている。

なお、自決の舞台となった自邸は、希典の遺志により東京市に寄贈され、1913年(大正2年)に「乃木公園」として開園し、1950年(昭和25年)以降は東京都港区が管理している[5]。園内に乃木邸と厩舎が保存されている[5]

家族

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乃木家

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湯地家

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「湯地」は「ゆち」と読む[1][2]

  • 父 - 湯地定之(さだゆき):鹿児島藩侍医
  • 母 - 湯地貞子(さだこ):鹿児島藩士である池田家の娘で、結婚前の幼名は天伊(てい)。次女・三女の結婚後の名前に「てい」の読みがあるのは実母の幼名から採られている。
  • 長兄 - 湯地定基(さだもと):貴族院勅選議員、根室縣(1843-1928)。
  • 次兄 - 湯地定廉(さだかど):海軍大尉[6]
  • 末兄 - 湯地定監(さだのり[2]):海軍機関中将、貴族院議員[2]
  • 長姉 - 名前不明:夭折。永らくの間は次女と同一人だとされていたため、名前も「馬場貞子」と思われていた。
  • 次姉 - 幼名不明:結婚後に馬場貞子(ていこ)となる(母親の名前と同じ字画なので区別するためと思われる)。姉の夭折により実質的な長女として育てられたため、永らくの間は本来の長女の名前が馬場貞子であるとされ、次女である当人が夭折したとされていた。自決した希典・静子夫妻の遺体を発見したのは彼女である。
  • 末姉 - 湯地お六:結婚後に柴テイとなる(てい・てい子・テイ子などと表記する文献もある)。静子と最も歳が近いため、特に仲が良かったといわれる。
  • 甥 - 湯地孝国文学者。定監の子。
  • 甥 - 湯地定敏第百四十七銀行(現鹿児島銀行)第七代頭取。定廉の子[7]
  • 大甥 - 湯地朝雄文芸評論家。孝の子。

脚注

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  1. ^ a b 志甫 2008, p. 100
  2. ^ a b c d 秦 2005, p. 265, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-湯地定監
  3. ^ 『乃木静子』(冬湖・宿利重一著、春秋社、昭和12年、「年譜」)には明治7年麴町元園町一丁目附近の麴町女學校に入學し初等教育を受けたとある。当時、当地で女性に初等教育を施す同名學校は現在の千代田区立麹町小学校の前身である麴町女學校である。なお、麹町学園女子高等学校の前身である麴町女學校は、明治38年9月12日に大築佛郎が私財をなげうって麹町元園町二丁目四番地に創立した女性に高等教育を施す學校である。
  4. ^ a b 大濱徹也 『乃木希典』 p290、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年12月。ISBN 978-4-06-292028-5
  5. ^ a b 乃木公園”. 東京都港区 公式サイト. 2019年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月13日閲覧。
  6. ^ 1896-, Ōue, Shirō,; 1896-, 大植四郎, (Shōwa 46 [1971]). Meiji kakochō : bukko jinmei jiten (Shintei shohan ed.). Tōkyō: Tōkyō Bijutsu. ISBN 4808701197. OCLC 21455101. https://www.worldcat.org/oclc/21455101 
  7. ^ 1921-, Kawasaki, Taijū,; 1921-, 川崎大十, (Heisei 12 [2000]). "Satsuma" no seishi : Satsuma, Ōsumi, Amami, Hyūga no ichibu (Shohan ed.). Kagoshima-shi: Taki Shobō. ISBN 4924752967. OCLC 46717032. https://www.worldcat.org/oclc/46717032 

参考文献

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関連作品

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関連項目

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外部リンク

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