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丹羽長守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丹羽 長守
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永20年(1643年[注釈 1]
死没 享保11年4月7日1726年5月8日[1]
別名 幼名:吉松[1]
通称:権十郎、左近、五左衛門[1]
隠居号:勝寿[1]
戒名 宗功[1]
官位 従五位下 遠江守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣家継
氏族 丹羽氏
父母 父:丹羽長吉、母:赤井忠泰の娘[1]
兄弟 長守赤井忠広、長時、長明、女(初鹿野信只の妻)、女(永井正清の妻) ほか[1]
三宅重貞の娘[1]
長道一色直賢山下勝行、女(赤井忠広の養女)、女(牧村直良の妻→阿部次紀の妻)、女(富永泰通の妻)、養女(丹羽長常の娘、赤井忠通の妻)、養女(牧村直良の娘、高田政孝の妻) ほか[2]
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丹羽 長守(にわ ながもり)は、江戸時代旗本長崎奉行・江戸町奉行(初代中町奉行、のち北町奉行に転じる)を務めた。官位は従五位下・遠江守

生涯

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1000石取りの旗本・丹羽長吉の子として生まれる[1]。長守の家は、丹羽長秀の六男・丹羽長次(丹羽長紹、左近)に始まる家で、長守はその孫にあたる[1]

寛文10年(1670年)に4代将軍徳川家綱拝謁[1]。寛文12年(1672年)5月26日、小姓組の番士となる[1]。二の丸において的射が行われた際に、弓術を披露し、褒美として呉服が与えられた[1]

元禄元年(1688年)12月9日、父の死を受けての家督継承が認められる。元禄4年(1691年)閏8月26日より屋敷改を務める[1]。元禄5年(1692年)12月23日には、浅草寺普請の功績により時服2領、羽織1領、黄金2枚を賜った[1]

元禄6年(1693年)5月10日、使番に昇進[1]。同年12月18日に布衣を許される[1]。元禄7年(1694年)4月14日に目付に転じた[1]。元禄8年(1695年)2月5日には長崎奉行に就任、同日常陸国信太・新治両郡内で500石の加増を受け、知行は合計1500石となった[1]。同年8月6日、従五位下・遠江守に叙任[1]

元禄15年(1702年)閏8月15日、町奉行に就任[1]。町奉行は3人制となり、長守は初代「中町奉行」に就任したと見なされる[3]。中町奉行所(中の番所)は鍛冶橋内に設けられた[3]。宝永4年(1707年)4月22日に長守は北町奉行に転じたとされるが[3]、これは最も北(常盤橋内)にあった松野助義の役所(北町奉行所)が数寄屋橋内に移転して最も南に位置することに伴う呼称の変更である[3]。同様に、松野助義は北町奉行から南町奉行に、坪内定鑑は南町奉行から中町奉行に転じることとなった。

正徳4年(1714年)1月16日に職を辞し、旗本寄合席に列した[1]。同年6月26日に隠居し、養老料300俵を与えられる[1]。享保11年(1726年)に84歳で没[1]

孫の丹羽高寛(丹羽長道の子)は、本家にあたる二本松藩主・丹羽秀延の養子となり、第5代二本松藩主となる。

丹羽長守が登場する作品

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テレビドラマ

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脚注

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注釈

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  1. ^ 寛政重修諸家譜における没年・享年から逆算。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『寛政重修諸家譜』巻第七百「丹羽」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.751
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百「丹羽」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.751-752
  3. ^ a b c d 大阪市立中央図書館(回答). “江戸時代の歴代「中町奉行」の在職期間を知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2024年11月9日閲覧。
  4. ^ 江戸中町奉行所”. 東映ビデオ. 2024年11月10日閲覧。