中院通富
表示
中院通富 | |
時代 | 江戸時代末期-明治時代 |
生誕 | 1823年10月26日(文政6年9月23日) |
死没 | 1885年(明治18年)6月19日[1] |
別名 | 通信[2]) |
官位 | 正二位、権大納言、伯爵 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 徳大寺家→中院家 |
父母 |
父:徳大寺実堅、母:醍醐信子 養父:中院通繁 |
兄弟 | 四辻公績、中院通富、定君(西園寺師季室) |
妻 | 中院繁子(中院通繁の娘) |
子 | 盛子(徳川昭武夫人)、養子:通規、他 |
中院 通富(なかのいん みちとよ[1] / みちとみ[3])は、幕末の公家、明治期の華族。伯爵。
経歴
[編集]山城国京都で内大臣・徳大寺実堅の二男として生まれ、侍従・中院通繁の養子となる[1][3]。天保8年3月25日(1837年4月29日)に元服し昇殿を許される[4]。天保12年8月29日(1841年10月13日)右近衛権少将に任じられ、右近衛権中将、兼参議、権中納言を経て、慶応4年2月2日(1868年2月24日)権大納言となった[4]。
安政5年3月(1858年)、日米修好通商条約締結の勅許案を巡り、中山忠能・大炊御門家信・広幡忠礼・四辻公績・正親町三条実愛・正親町実徳・三条西季知・日野資宗・庭田重胤・八条隆祐・橋本実麗・野宮定功と共に、案文の変更を求めた[5][注 1]。万延元年7月(1860年)儲君祐宮(後の明治天皇)の三卿に就任[3]。その後、七次にわたって議奏加勢を務める[3]。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与、林和靖間詰並御内儀口向等取締に就任[6]。同年閏4月、桂宮祗候に転じ、その後、殿掌などを務めた[3]。
親族
[編集]- 母:醍醐信子(醍醐輝久の娘)[1]
- 妻:ツグ子(養父長女)[1]
- 養嗣子:中院通規(1856年 - 1925年、伯爵、徳大寺公純三男)[1] - 徳大寺公純は実堅の養子で、実堅の兄鷹司政煕の曾孫である。
- 長男:富有(1877年 - ?、分家[2])
- 次男:住友理助(1879年 - ?、旧名富壽[2]、二女あり[8])
- 娘:盛子(1861年 - 1883年、徳川昭武夫人)
系譜
[編集]東山天皇の男系四世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 修史局編『百官履歴』 上巻、日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成』 下巻、吉川弘文館、1996年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』 下巻、新人物往来社、2010年。
- 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
- 八幡和郎「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」『新潮45』第36巻第1号、新潮社、2017年1月18日。
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 叙爵 |
伯爵 中院家初代 1884年 - 1885年 |
次代 中院通規 |