中川久慶
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中川久慶像(個人蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝永5年3月8日(1708年4月28日) |
死没 | 寛保3年10月30日(1743年12月15日) |
改名 | 雅之助(幼名)、重貞、久慶 |
別名 | 主殿(通称) |
戒名 | 魏燃院 |
墓所 | 東京都港区愛宕の青松寺 |
官位 | 従五位下・山城守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 豊後岡藩主 |
氏族 | 浅野氏→中川氏 |
父母 |
父:浅野綱長、母:不詳 養父:中川久忠 |
兄弟 | 浅野吉長、浅野長賢、久慶、梅、九条師孝室、一条兼香室、本庄資訓継室、於三、水野忠幹正室 |
妻 | 正室:中川久忠の養女・清 |
子 |
祐丸 養子:久貞、中川久貞正室 |
中川 久慶(なかがわ ひさよし)は、豊後国岡藩の第7代藩主。
略歴
[編集]宝永5年(1708年)3月8日、安芸広島藩主・浅野綱長の4男として生まれる。元文2年(1737年)閏11月25日、第6代藩主・中川久忠の養子となる。元文3年(1738年)12月18日、従五位下・山城守に叙任する。寛保2年(1742年)12月19日、久忠の死去により家督を継いだ。
藩政刷新を目指して目安箱を設置しようとするなど、藩政改革に意欲を示していたが、久忠の後を追うように寛保3年(1743年)10月30日に死去した。享年36。跡を養子の久貞が継いだ。
系譜
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