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三木キヨ子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三木 キヨ子(みき キヨこ、1919年4月8日[1] - 2018年10月26日[2][3])は、日本の政治家衆議院議員(1期)。死去時の姓は佐藤[4]

来歴

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大阪府大阪市出身。1936年大阪市立堀江高等家政女学校卒[5][注 1]。卒業後は劇団員となった後、喫茶店アパートを経営し[5][6]、戦時中に商工省の官僚と結婚したが間もなく離婚した[7]

1946年第22回衆議院議員総選挙大阪府第1区)に大阪民本党から立候補して最下位(7位)で当選[8]、26歳の最年少議員となった[9]。当選直後「大阪府立女専中退」という経歴が詐称であることが発覚し[10]、三木はその事実を認め、裁判では禁錮2ヶ月の判決を受け控訴したが、5ヶ月後に免訴となった[11]

1947年第23回衆議院議員総選挙日本自由党公認で、1949年第24回衆議院議員総選挙民主自由党公認で大阪2区から立候補したがいずれも落選した[12]。わずか1年間の議員時代に様々な業界から接待を受け、毎日のように料亭に招かれ、「食べるものに困る時代だったのに、おかしい」と違和感を感じたという[13]

落選後は朝日新聞の記者と再婚して宝塚市に居住し、日照権や建築公害に関する住民運動やホームレス支援に力を入れている[1][4]。また、西宮を明るくする会の代表を務めた[5]。同記事の掲載以降、2017年までに園田天光光三笠宮崇仁親王が没したため、この時点で10年以内に所在が確認されている最後の存命帝国議会議員経験者であった[13]

2018年10月26日、老衰のため死去[2]。99歳没。

著書

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  • 『太陽はみんなのものだ―建築公害に挑戦し、本音で生きた91歳の人生』(ウインかもがわ、2010年)
  • 『日本初の女性国会議員 きよ子・95歳の人生奮闘記 生きた 愛した 闘った』(宝塚出版、2014年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』217頁では「大阪市立住吉高等家政学校」と記載。

出典

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  1. ^ a b 『毎日新聞』1994年8月21日東京朝刊4頁「女性議員の先達たち 三木喜代子さん」
  2. ^ a b “女性初の国会議員・佐藤きよ子さん死去 99歳、老衰で”. 朝日新聞. (2019年2月15日). https://www.asahi.com/articles/ASM2H5FT1M2HPIHB01P.html?iref=comtop_latestnews_02 2019年2月15日閲覧。 
  3. ^ 女性初の国会議員、佐藤きよ子さん死去 99歳 - 神戸新聞NEXT 2019年2月15日
  4. ^ a b 『朝日新聞』2010年4月18日阪神朝刊25頁「日照権おばさん、波瀾万丈の自伝 初の女性国会議員 宝塚・佐藤きよ子さん」
  5. ^ a b c 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』615頁。
  6. ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』213-214頁。
  7. ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』219頁。
  8. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』150頁。
  9. ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』216頁。
  10. ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』217頁。
  11. ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』219頁。
  12. ^ 『朝日選挙大観』522頁。
  13. ^ a b 『朝日新聞』2016年7月8日朝刊31面、生活欄、「人任せの意識捨てよう 初の女性国会議員佐藤きよ子さんに聞く 怒ってみたら… 女性参政権から70年6⃣」。

参考文献

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  • 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年11月。
  • 岩尾光代著『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』(日本放送出版協会、1999年)ISBN 4140804394
  • 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
  • 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。

関連項目

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