ラマダーン革命
ラマダーン革命 | |
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クーデターで処刑されたアブドルカリーム・カーシムら政権幹部 | |
戦争:ラマダーン革命 | |
年月日:1963年2月8日 - 2月10日 | |
場所:イラク | |
結果:アブドルカリーム・カーシム政権打倒 第1次 バアス党政権の成立 イラク共産党員ら共産主義者の粛清 | |
交戦勢力 | |
カーシム政権 イラク共産党 |
バアス党 ナセリスト |
指導者・指揮官 | |
アブドルカリーム・カーシム | アフマド・ハサン・アル=バクル アブドッサラーム・アーリフ |
損害 | |
5000名以上 | 80名? |
ラマダーン革命(ラマダーンかくめい、2月8日革命・イラク1963年2月クーデター)は、1963年2月にバアス党イラク地域指導部とアブドッサラーム・アーリフらがアブドルカリーム・カーシム政権を打倒したクーデターである。クーデター後、バアス党のアフマド・ハサン・アル=バクルが首相となり、アブドッサラーム・アーリフが大統領となった。
背景
[編集]1958年、イラクの自由将校団はイラク共産党等と共に、7月14日革命によってハーシム王政打倒を成功させた。しかし、革命に参加した勢力内部での対立が起きはじめた。自由将校団アブドッサラーム・アーリフとバアス党を中心とした汎アラブ主義勢力は、アラブ連合共和国との即時統合を主張した。一方でイラク共産党は勢力の均衡を考え、アラブ連合共和国との経済、文化面での協力を伴う統合には反対していた。
7月14日革命によって首相となった自由将校団のアブドルカリーム・カーシムは、他の自由将校団メンバーと関係を悪化させていた。イラク共産党はカーシム政権に接近し、協力関係を求めた。カーシムも農地改革など共産党の提唱する政策を実行した。イラク共産党と政権支持者は「大いなる要求のため、イラク共産党とアブドルカリーム・カーシムの長期統治を![1]」というスローガンを 掲げて行進するようになった。一方でカーシムは共産党の勢力拡大による政権転覆を恐れ、武装解除などを命じていた。
カーシム政権への不満は年々と高まっていった。 共産党民兵による暴力も人々の反発をまねいていた[2]。 一方、アブドッサラーム・アーリフは反乱計画を立てた疑いで1959年2月に死刑を宣告された後、1961年11月に恩赦で釈放され、自宅軟禁状態に置かれていた。 その間、シリアにおけるクーデターでアラブ連合共和国が解消されたが、カーシム政権はその指導者を支援していた。 アーリフら汎アラブ主義者との対立は決定的であった。
クーデター
[編集]カーシムの排除は1963年2月8日に実行され、ラマダーンの14日目だったのでラマダン14日クーデターとも呼ばれる。1962年以来、幾度もクーデター計画が練られたが、発見を恐れて決行されてこなかった。 このクーデターも当初1月18日に計画されていたが、25日に延期になった。しかし、この情報が漏れて数名が逮捕されたため、結局2月8日になった。
2月8日早朝、共産党員のジャラル・アル=アワカティ空軍司令官の暗殺と戦車部隊のアブグレイブ・ラジオ局の占拠によって、クーデターが開始された。 その後2日間に渡って、バアス党派とカーシム派の間で激しい戦闘が展開された。カーシムは国防省に逃げ込んだが、そこで戦闘はさらに激化した。共産党派もバグダードの街に出てクーデターに抵抗し、さらに多くの犠牲者を出した。 2月9日、カーシムは自らの安全な国外脱出の許可を条件に降伏を申し出た。しかし、その要求は拒否された。同日午後、カーシムは、新たに設置された「革命指導国民評議会」の命令[3]によって、ラジオを通じた形だけの裁判にかけられ処刑された。 カーシムが処刑された直後に遺体はテレビで放映された。
クーデターの始まった8日から10日にかけての戦闘とその後の共産党員狩りによって、少なくとも5000名のイラク人が犠牲となった。
その後
[編集]クーデター後、大統領になったアブドッサラーム・アーリフと、首相に就任したアフマド・ハサン・アル=バクル率いるバアス党との間で権力闘争がおきた。結局、バアス党の党内抗争の後、1963年11月イラククーデターでバクル首相らバアス党員は政権から追放された。