マリア・デ・カスティーリャ
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マリア・デ・カスティーリャ María de Castilla | |
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アラゴン王妃 | |
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在位 | 1416年 - 1458年 |
別称号 |
シチリア王妃 ナポリ王妃 バレンシア王妃 バルセロナ伯妃 |
出生 |
1401年9月1日 カスティーリャ王国、セゴビア |
死去 |
1458年10月4日(57歳没) バレンシア王国、バレンシア |
埋葬 |
バレンシア王国、バレンシア 後にナポリ、サンタンナ・デイ・ロンバルディ聖堂 |
結婚 | 1415年6月12日 バレンシア大聖堂 |
配偶者 | アラゴン王アルフォンソ5世 |
家名 | トラスタマラ家 |
父親 | カスティーリャ王エンリケ3世 |
母親 | カタリナ・デ・ランカステル |
宗教 | ローマ・カトリック |
マリア・デ・カスティーリャ(María de Castilla, 1401年9月1日 - 1458年10月4日)は、アラゴン王兼ナポリ王アルフォンソ5世の王妃。カスティーリャ王エンリケ3世と王妃カタリナの娘。
生涯
[編集]1415年に従兄であるアルフォンソと結婚し、翌1416年の夫の王位継承により王妃となった。2人の間に子供は生まれなかった。なお、1418年にマリアの弟カスティーリャ王フアン2世とアルフォンソ5世の妹マリアが、1420年にマリアの妹カタリナとアルフォンソ5世の弟エンリケが結婚している[1]。
アルフォンソ5世はアラゴン王位と共にバルセロナ伯、およびバレンシア、シチリアの王位を継承していたが、ナポリ王位を争って1442年に獲得した。アルフォンソ5世はたびたび出征を重ねた後、ナポリ王国の征服後はナポリに宮廷を構えてアラゴンやカタルーニャへは戻らなかった。そのため、マリアは夫に代わって摂政としてアラゴン・カタルーニャを治めた。しかし、義弟フアン(後のアラゴン王フアン2世)が生地カスティーリャへ軍事介入したり、アラゴンがナポリへ財政支援を行った影響で窮乏、都市と農村で貴族と職人、役人と農民の対立が深刻化した。国内の問題を抑えきれないマリアはナポリの夫へ手紙を送り、何度もアラゴンへの帰国を嘆願したが却下された[2]。
1458年、夫の死から3か月余り後にバレンシアで死去した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 田澤耕『物語カタルーニャの歴史』中央公論新社(中公新書)、2000年。
- 関哲行・立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 1 -古代~中世-』山川出版社、2008年。
- 西川和子『スペイン レコンキスタ時代の王たち 中世800年の国盗り物語』彩流社、2016年。
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