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ピール・ムハンマド・ジャハーンギール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピール・ムハンマド・ジャハーンギール
ティムール朝王族

出生 1376年
死去 1407年
子女 カイドゥ
父親 ジャハーンギール
母親 ハニケ、またはバフト・ムルク
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ピール・ムハンマド・ジャハーンギール1376年 - 1407年)は、ティムール朝の王族。ティムールの子ジャハーンギールの子。母はチャガタイ・ハン国のハン・バヤン・クリの娘ハニケ、あるいはヤサウリー部族出身のバフト・ムルクと考えられている[1]

過度の飲酒を好む人物と伝えられている[2]1404年サマルカンドを訪れたカスティーリャ王国の使者ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホは、ピール・ムハンマドの容姿について、黄褐色の肌をした髭の無い人物と記録している[3]

生涯

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若年期

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1376年、父ジャハーンギールの死から40日後に誕生した[4]

1391年のティムールのキプチャク草原遠征では、叔父シャー・ルフと共に首都サマルカンドの留守を預かった[4]。翌1392年からの五年戦役には、ピール・ムハンマド・ジャハーンギールも従軍した。1397年末にはアフガニスタンに赴任し、現在のアフガニスタン・イスラム共和国の東半分にあたる地域を支配していた[5]

1397年末に祖父ティムールの命令を受けてインド侵攻を開始、クエッタ近辺のアフガン人を討ってインダス川に到達する[6]。ピール・ムハンマドはインダス川を遡り、トゥグルク朝の有力者サーラング・カーンが知事を務めるムルターンに包囲を敷いた。6か月の包囲の末に食糧が欠乏したムルターンを攻略するが、ピール・ムハンマドの意外な苦戦を知ったティムールは親征を決意した[6]

ムルターン攻略後にピール・ムハンマドの軍は豪雨に見舞われて軍馬をすべて失い、ピール・ムハンマドに帰順していたインドの領主たちは翻意し、ムルターンへ進軍した[7]。10月25日にピール・ムハンマドの軍はティムールの本隊と合流して窮地から救われ、軍馬の補充を受けて本隊に編入された[8]

ティムールの死後

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ティムールはピール・ムハンマドの兄ムハンマド・スルタンを帝国の後継者と考えていたが、1403年3月にムハンマド・スルタンが急死する[9]1404年、中国遠征前にサマルカンドで開かれた大祝宴で、ピール・ムハンマドが新たな後継者として祝宴の参加者に紹介された[10]

1405年2月18日にティムールがオトラルで没した時、ティムールはピール・ムハンマドを後継者をするように遺言した[11]。この時にピール・ムハンマドはカンダハルに駐屯しており、祖父の死と遺言の内容を知るとサマルカンドに向かった。一方、サマルカンド近辺ではティムールの甥スルタン・フサインとピール・ムハンマドの従兄弟ハリール・スルタンがティムールの後継者の地位を主張しており、フサインを放逐したハリールがサマルカンドの主になっていた[12]

1405年末にピール・ムハンマドはアフガニスタンからバルフに移動し、シャー・ルフに協力を要請した[12]1406年2月にピール・ムハンマドはハリールと交戦するが、勝利の直前に指揮下のアミールの数人が逃亡したために敗北し、バルフに退却した[13]

1407年2月、ピール・ムハンマドは配下であるスルドゥズ部のピール・アリー・ターズによって暗殺された。ピール・アリー・ターズの反乱の理由については、ティムールの時代に解体されたスルドゥズ部の再統一[14]ミーラーン・シャーとハリールの示唆などが考えられている[15]

彼の死後に子のカイドゥがバルフに残されたが、���イドゥはシャー・ルフによって救出された。

脚注

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  1. ^ 川口『ティムール帝国支配層の研究』、53-54頁
  2. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、194頁
  3. ^ クラヴィホ『チムール帝国紀行』(山田信夫訳, 桃源社, 1979年4月)、226-228頁
  4. ^ a b 川口『ティムール帝国支配層の研究』、91頁
  5. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、270頁
  6. ^ a b 加藤『ティームール朝成立史の研究』、271頁
  7. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、209-210頁
  8. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、221-222頁
  9. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、117頁
  10. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、122頁
  11. ^ 川口『ティムール帝国支配層の研究』、102-103頁
  12. ^ a b ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、197頁
  13. ^ 川口『ティムール帝国支配層の研究』、108,110頁
  14. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、201頁
  15. ^ 川口『ティムール帝国支配層の研究』、111頁

参考文献

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  • 加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』(北海道大学図書刊行会, 1999年2月)
  • 川口琢司『ティムール帝国支配層の研究』(北海道大学出版会, 2007年4月)
  • ルスタン・ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会, 2008年10月)