ノート:ゲーム理論/過去ログ1
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出典を探しています
[編集]ゲーム理論家
[編集]本記事を読んでいると「ゲーム理論家」という言葉が何度も現れるにもかかわらず、本記事には「ゲーム理論家」の定義が書いていませんしウィキペディア内に「ゲーム理論家」という記事があるわけでもありません。そこで、導入部辺りに「なお、ゲーム理論の研究者はゲーム理論家と呼ばれる。」といった一文を挿れるべきだと思うのですが、「ゲーム理論家とは...」といった内容が書いてある文献が見つかりません。もちろん、「ゲーム理論家であるAは××と主張した。」とか「ゲーム理論家でもあったBは...」といった記述はよく見かけるのですが(←AやBにはゲーム理論研究者の名前が入ります)、ここがウィキペディアである以上「...をゲーム理論家と呼ぶ。」とか「ゲーム理論家とは...」といった記述を出典としない限り先のような情報を記事に記載することは出来ません。急務ではありませんので私もゆっくり探してみますが、もしも適切な文献をご存知の方がおられましたらご教示ください。--ミクロ経済学(会話) 2016年10月11日 (火) 12:36 (UTC)
追記 ちなみに「ゲーム理論家」という言葉は論者によって意味に幅があるようでして、仮に独自研究をしたとしても百科事典的に定義するのが難しいと思います。例えば、鈴木(2007)は1995〜2006年のノーベル賞受賞者をゲーム理論家とは認めていないため、スティグリッツやスペンスのようなゲーム理論を間接的に応用した程度の研究者はゲーム理論家ではない、というのが鈴木氏のスタンスのようです。他方、ロス(2016)は「ゲーム理論家」を自称していますので、彼の定義は鈴木氏のそれよりも広いようです。まあ、「ゲーム理論家」=「ゲーム理論の研究者」と定義したとしても「ゲーム理論の研究」のニュアンスが論者によって異なるというだけの話ですが。--ミクロ経済学(会話) 2016年10月14日 (金) 02:32 (UTC)
報告 学説史系の文献にはちょうど良い記述が見つかりませんが、Oxford Dictionaryにgame theoristの項目があったので、とりあえず導入部に補足・引用しておきました。合わせてゲーム理論家を作成したことを報告いたします。--ミクロ経済学(会話) 2017年2月21日 (火) 07:39 (UTC)
僭越ながら『要出典』を入れさせて頂きました。
[編集]差分を見て頂ければ分かりますが、経済学、とりわけ本ゲーム理論からすれば些末な部分ですが『要出典』を記入しました。
経済学について知見のある人であれば、今回の『要出典』は常識のようなものがほとんどですが、経済学について知見が無い人にとっては、少し違和感を感じるのでは無いかという視点でチェックさせて頂いております。ご検討のほどよろしくお願いします。--Earthboud1960(会話) 2016年9月2日 (金) 19:43 (UTC)
- コメント 今更で申し訳ないのですが、今回の{{要出典範囲}}は「Wikipedia:出典を明記する」とは関係ないものも多く、また、どのような意図があるのか分かりにくいものも多かったので、今後は{{疑問点範囲}}など適切なTemplateを本文中に添付して具体的な問題点についてはノートで問題提起して頂く、等の方法をとって頂けると助かります。もちろん「明らかに出典が抜けているだけのケース」なら{{要出典範囲}}を添付して頂くだけでも意図が伝わるので宜しいのですが。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月9日 (金) 15:38 (UTC)
- 返信 確かに御指摘のとおりです。以後気をつけます。--Earthboud1960(会話) 2016年9月19日 (月) 17:00 (UTC)
提案というか私からの勝手なお願いです。
[編集]ミクロ経済学様、精力的な執筆活動お疲れ様です。私のような者がミクロ経済学様の労作に、『要出典』を貼るのは大変失礼な話ですが、一読者として違和感を感じた分を指摘させて頂きました。不愉快に感じられたとしたら、お詫び申し上げます。
失礼を承知の上で、さらにお願いをします。ページの中にコメントを直接記載されると、返答を書き込むのにノート以上に注意が必要になります。できたらこちらに記載して頂けると助かります。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 01:40 (UTC)
- ゲーム理論が登場・普及する以前に「主流派」とか「正統派」と呼ばれる位置を占めていた
- ミクロ経済学様ご回答
- 「無数の経済主体が市場価格のみをシグナルとしてそれぞれ独立に可能な技術および予算制約の下で最適化を行い、経済主体は互いの行動の影響を考慮しないという新古典派的市場モデルへの批判として登場したゲーム理論」という記述に対応しております。
- コメント「主流派」「正統派」で有ることは経済学を少し勉強していた人にとっては当然の知識ですが、経済学の知識の無いかたや、『教条的 マルクス経済主義者』(真摯にマルクス経済学を研究しているかたと区別するための私の造語です。)に取っては違和感があるのでは無いでしょうか?また、対応している部分との関係も少し弱いような気がします。『近代経済学で主流だった』程度の表現に抑えて記述されたほうが良いと感じました。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 01:40 (UTC)
- コメント 恐縮ですが、この{{要出典}}箇所に関してはまだ回答や対応をしておりません(上で引用されているのは「ゲーム理論は誕生当初には新古典派経済学と対立していた」の{{要出典}}に対するものです)。「ゲーム理論が登場・普及する以前に「主流派」とか「正統派」と呼ばれる位置を占めていた」という一節は直後の箇所で引用した神取や鈴木の文脈やスタンスを伝えるための補足のつもりで書きました。その部分に追加的に出典を加えるとWikipedia:独自研究は載せないに抵触する可能性があるので、何らかの形で注釈を加えようと思います(具体的な方法については検討中)。
ところで、ゲーム理論に対して新古典派を「近代経済学で主流だった」と書くことについては、あたかもゲーム理論が近代経済学であるかのように感じられるため避けるべきだと思います。「近代経済学」というジャーゴンは非マルクス経済学を表しますが、「マルクス経済学」という言葉自体が多義的なので、「日本における特定の時代の特定の人物や学派についての文脈」以外で「近代経済学」という言葉を使うのは避けるべきだと思います。日本における「マルクス経済学」(=非「近代経済学」)に関しては以下のような図式化ができると思います。- 狭義のマルクス経済学(現代マルクス派)
- 広義のマルクス経済学
- 現代マルクス派 - 狭義のマルクス経済学。
- アナリティカルマルキシズム - 新古典派の手法やゲーム理論などを用いる。
- ポスト・ケインズ派経済学 - 制度派とマルクス派の系譜。アナマル派の吉原氏は「左翼ケインジアン」と呼んでいた。
- レギュラシオン学派 - 制度派とマルクス派の系譜。フランス生まれ。
- ラディカル派 - 制度派とマルクス派の系譜。アメリカで一時期流行したらしい。
- 制度派
- 新制度派 - ゲーム理論や契約理論を用いる。
- このように「マルクス経済学」と言っても様々な種類があり、ポリティカルエコノミー全般をそう呼ぶ方もいればマルクス主義だけをそう呼ぶ方もいたりするので、「マルクス経済学/近代経済学」という区分はなるべく用いない方が無難だと思うのです。また、「主流派/異端派」という区分は「広義のマルクス経済学」の中心的勢力の一つである「ポスト・ケインズ派」のリーダーの方が「異端の経済学」を自称したことによって生まれたと記憶しておりますので、「異端派」の方が「新古典派は主流派」と聞いて不快に感じられる心配はないと思います。ちなみに学説史家の山崎聡氏のように「主流派経済学=近代経済学=新古典派経済学」という認識をされている方も少なくないようなので、そういった意味でも「(新古典派が)近代経済学(の中)で主流だった」という表現はあまり望ましくないと思います。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月3日 (土) 07:02 (UTC)
- 返信 確かに御指摘のとおりですね。私の考え方が『表層的』でした。私の意見を取り下げます。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 12:15 (UTC)
- 報告 キングの『ポスト・ケインズ派の経済理論』という事典の「ワルラス経済学」(M. C. Howard)の項目に新古典派(一般均衡理論)とゲーム理論に関する記述がありましたので、それを出典としまして{{要出典範囲}}を除去しました。具体的な引用部分は「ワルラス経済学は、19世紀後半における限界革命から現れた新古典派のアプローチの一つであり...ワルラスの初期の定式化以来、かれの一般均衡理論はますます洗練されたものになり、ごく最近ゲーム理論によって取って代わられるようになったとはいえ、20世紀中の正統派理論の支配的形態となった」(385頁)の部分です。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月10日 (土) 06:36 (UTC)
- 返信 確かに御指摘のとおりですね。私の考え方が『表層的』でした。私の意見を取り下げます。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 12:15 (UTC)
- コメント 恐縮ですが、この{{要出典}}箇所に関してはまだ回答や対応をしておりません(上で引用されているのは「ゲーム理論は誕生当初には新古典派経済学と対立していた」の{{要出典}}に対するものです)。「ゲーム理論が登場・普及する以前に「主流派」とか「正統派」と呼ばれる位置を占めていた」という一節は直後の箇所で引用した神取や鈴木の文脈やスタンスを伝えるための補足のつもりで書きました。その部分に追加的に出典を加えるとWikipedia:独自研究は載せないに抵触する可能性があるので、何らかの形で注釈を加えようと思います(具体的な方法については検討中)。
- コメント「主流派」「正統派」で有ることは経済学を少し勉強していた人にとっては当然の知識ですが、経済学の知識の無いかたや、『教条的 マルクス経済主義者』(真摯にマルクス経済学を研究しているかたと区別するための私の造語です。)に取っては違和感があるのでは無いでしょうか?また、対応している部分との関係も少し弱いような気がします。『近代経済学で主流だった』程度の表現に抑えて記述されたほうが良いと感じました。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 01:40 (UTC)
- ゲーム理論は誕生当初には新古典派経済学と対立していた
ミクロ経済学の回答 上の記述に「要出典範囲」テンプレートが添付されていたので解説。この記述は、下で引用している岡田(2011、13頁19〜21行目)の「無数の経済主体が市場価格のみをシグナルとしてそれぞれ独立に可能な技術および予算制約の下で最適化を行い、経済主体は互いの行動の影響を考慮しないという新古典派的市場モデルへの批判として登場したゲーム理論」という記述に対応しております。ちなみに本記事導入部の「元来は主流派経済学(新古典派経済学)への批判を目的として生まれた理論であったが、」の部分もこの岡田(2011)を引用したものです。
コメント了解いたしました。『対立していた後』に、出典を記載して頂けると助かります。要出典は削除して頂いて結構です。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 01:40 (UTC)
- 「仁」
ミクロ経済学の回答 上の記述の「仁」の部分のみになぜか「要出典範囲」テンプレートが添付してあったので補足。引用していた鈴木(2014)の212〜213頁は「経営学におけるゲーム理論ーー1980年代から90年代」という節でして、「会計学の分野でも、シャプレー値や仁などの解概念が費用分担の問題などで、積極的に使われるようになりました」という記述があります。
コメント申し訳ありません。私の知識不足なのですが「仁」って何でしょうか?多分、私以外の読者も「シャプレー値」は分かるのですが(正確には検索にヒットするのですが)「仁」という単語の意味が分かりません。ご教授頂けると助かります。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 01:40 (UTC)
- コメント 「仁」とは協力ゲームにおける主要な解概念のひとつであり、つまり、
- という図式化ができるでしょう。「ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません」という公式な方針があるので記事の中で基本概念の解説を加えることは控えさせていただきます。ここではインターネット上でアクセス可能な文献として「岸本(2015)」を挙げておきます。ちなみに記事中では「#1960年代」、「#宗教学」の節で「仁」について言及してあるはずなのでそちらも参考になるかもしれません。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月3日 (土) 05:56 (UTC)
- コメント大変詳しい解説ありがとうございました。勉強になりました。もちろん『要出典』は削除して下さい。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 06:49 (UTC)
- 「戦後長らくマルクス経済学が主流であった」
ミクロ経済学の回答 「戦後長らくマルクス経済学が主流であった」の部分に「要出典範囲」テンプレートが添付されていたので補足。以下は当該記述の引用文献である橘木(2014)からの抜粋です。「戦後になると状況が一変します。民主化路線のもと、戦争協力者、支持者と見なされた国家主義派は大学を追われました。一方、進歩主義が優勢になるなか、マル経グループは復職を遂げ、このことをきっかけに東大はマル経が中心になっていきます。京大は東大以上にマル経が強くなり、「マル経の牙城」とまで言われました。東大と京大で教えを受けた経済学者たちは全国の大学でマル経を広め、人事においてはマル経派を積極的に採用しました。こうして、日本の経済学界ではマル経が主流になっていったのです。」(53頁)そして下述の理由から1970年代~1980年代にかけてマルクス経済学の勢力が弱まり、80年代以降は「東大も非マル経が主流とな」った訳です。この頃から近代経済学が教えられるようになった旨の記述については松島(2015)にも詳しく書いてあったので、松島(2015)も併出典しておきます(念のため)。
コメント了解いたしました。『主流であった』の後に、出典を記載して頂けると助かります。 経済学の履歴を参照して頂けると分かるのですが、かつて、『マルクス経済学』と『近代経済学』との間であまり、経済学とは関係の無い議論があったので、同様なことになることを危惧してのお願いでした。要出典は削除して頂いて結構です。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 01:40 (UTC)
- コメント 国際的には「主流派経済学=新古典派経済学=近代経済学」(山崎2015)である現状を踏まえると「戦後長らくマルクス経済学が主流であった」という(皮肉にすら感じられる)表現はやや混乱を招く可能性があるので何らかの形で表現を修正しようと思います。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月3日 (土) 07:13 (UTC)
- 追記「主流派経済学=新古典派経済学=近代経済学」という図式化が誤解を招きそうなので補足しますと、ここでの「新古典派」には一部のケインズ派が含まれます。すなわち、「ルーカス批判」以前ですと「新古典派総合」(『一般理論』を静学的なIS-LMモデルとして解釈し、好景気時には新古典派モデルが、不況時にはIS-LMモデルが適用される、という考え方)、「ルーカス批判」以降ですと「ニューケインジアン」(一般均衡理論にケインズ的な仮定を取り入れて動学分析する人たち)が「新古典派経済学」に含まれていると考える訳です。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月3日 (土) 07:43 (UTC)
- 返信 確かに『「戦後長らくマルクス経済学が主流であった」という(皮肉にすら感じられる)表現』は少し修正の余地がありそうですね。私の世代にとっては「周知の事実」というか「公理」に近いのですが、二次資料をもとに記述しないといけないので少々お手間を取らせることになり申し訳ないです。--Earthboud1960(会話) 2016年9月3日 (土) 12:15 (UTC)
Borel (1924) の hasard の定冠詞
[編集]- Borel, E. (1924), “Sur les jeux où interviennent l'hasard et l'habileté des joueurs”, dans Éléments de la Théorie des Probabilités, Paris: 204–224
の l'hasard と le hasard ってどっちが正しいんでしょう?フランス語的には後者だと思うのですが検索すると両方出てきます.新規作成 (利用者名) (会話) 2016年9月9日 (金) 09:54 (UTC)
- 返信 新規作成さん、いつも丁寧な編集ありがとうございます。私が参照していた鈴木光男さんの著書は全て l'hasard になっていました。私はフランス語に関しては全くの素人なので処置についてはお任せします。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月9日 (金) 10:22 (UTC)
- 追記 Google Scholarで両論文名を検索したところ、l'hasard が8件、 le hasard が0件でした。古くしかもフランス語の論文なので掛かりつけの図書館にも蔵書がなかったので断定は出来ませんが、どうやら前者が正しいようです。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月10日 (土) 07:54 (UTC)
- 私がやると8件と12件になりますが.私の大学の図書館にはあるので今度行ったついでに見てみます.新規作成 (利用者名) (会話) 2016年9月10日 (土) 10:52 (UTC)
- 行ってはいるのですが,あるはずの場所になく,確認できてません,すみません.ウェブ上でPDFか何かないか探しても見つからないですね.新規作成 (利用者名) (会話) 2016年9月16日 (金) 07:24 (UTC)
- フランス語の文法的に正しいのは新規作成さんの指摘どおりle hasardですね。--ShuBraque(会話) 2016年10月1日 (土) 06:14 (UTC)
- 現物を確認できたので書き換えておきました.新規作成 (利用者名) (会話) 2016年10月14日 (金) 13:21 (UTC)
- ありがとうございます。私はフランス語を勉強したことがないので、たいへん助かりました。--ミクロ経済学(会話) 2016年10月14日 (金) 15:06 (UTC)
鈴木光男の写真を追加しました。
[編集]いろいろ、井戸端で議論がありましたが、鈴木光男の写真をアップさせて頂きました。「不要であると」お感じ、もしくは、「議論になった写真の使用は差し控えたい」とお感じになるのであれば、削除して頂いて結構です。--Earthboud1960(会話) 2016年9月22日 (木) 20:16 (UTC)
- 使用許諾が確認できませんので除去します。--hyolee2/H.L.LEE 2016年9月22日 (木) 21:35 (UTC)
- 情報的にも雰囲気的にもなかなか良い写真だったので残念ですね。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月22日 (木) 21:44 (UTC)
- 返信 使用許諾に関してOTRSに証拠となるメールを送りましたので、ご確認ください。また『井戸端』『書籍に掲載��れている顔写真をスキャンしトリミングして使用することは可能でしょうか?』での議論も合わせてお読み頂けると幸いです。--Earthboud1960(会話) 2016年9月23日 (金) 00:28 (UTC)
- 報告 使用承諾に際して「問題なし」と判断し、hyolee2氏の除去された画像を再び添付。ただし、鈴木さん個人に関する画像が連続すると中立性などの観点からつっこまれそうなので教科書表紙の画像は除去しました。また、画像のサイズを指定すると閲覧環境によっては大きく(小さく)なり過ぎたりする恐れがあるので、あえてサイズ指定はしておりません。ちなみに画像の説明文で「日本語圏」となっているのはWP:JPOV対策です(typoではありません)。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月23日 (金) 03:39 (UTC)
- 2016年9月23日 (金) 04:50 (UTC)の時点ではOTRS側は承諾していません。承諾が出てから貼付をお願いします。--hyolee2/H.L.LEE 2016年9月23日 (金) 04:50 (UTC)
- 報告 画像を添付しました。Mitsu-Suzuki2.jpgとMituo-Suzuki1.jpgを勘違いしていたようですね。画像のサイズについては(前述の通り)指定していませんが、もしも閲覧環境によって不自然に大きくなったり小さくなったりしてしまうようなことがあった場合、教えてください。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月23日 (金) 08:25 (UTC)
- 追記 File:Mitsu-Suzuki2.jpgは、2016年9月23日にhyolee2氏によって「このファイルには使用承諾の許可がありません」のテンプレートが添付されましたので、このテンプレートが除去されるまで画像の使用を見送ろうと思います。何が問題なのか分からないので私には解決しようがありませんが。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月24日 (土) 01:32 (UTC)
- コメント私がファイルをアップロードする際に手順を間違えてしまったのだと思います。エビデンスとしてメールの添付を求められたような気がしますが、件の「井戸端」での議論の中で「住所」「アドレス」「電話番号」「名前」がホームページに記載されているかたのメールも『個人情報保護・リテラシーの欠如』との理由で一方的に削除され、その後、回復してもらえませんでした。
- このため、記憶は定かでは無いのですが「写真」をアップする際も「メール等のエビデンス」を敢えて添付しなかったのがいけなかったのだと思います。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ウィペディア・コモンズにはエビデンスになるメールは送付済みですので、近いうちに使用許諾に関する許可は下りると思います。--Earthboud1960(会話) 2016年9月24日 (土) 01:47 (UTC)
- 情報的にも雰囲気的にもなかなか良い写真だったので残念ですね。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月22日 (木) 21:44 (UTC)
コメントインデント戻します。鈴木光男先生の写真使用承諾の許可がおりました。ご迷惑をおかけしました。--Earthboud1960(会話) 2016年9月25日 (日) 05:20 (UTC)
「具体的な例とショートサマリーを合わせた導入的な項目」は必要か
[編集]概要
[編集]Wikipedia:議論が終わったらまとめておく#概要を加える(進行中の議論で、まだ議論全体をまとめる段階には至っていない場合でも、要約をつけると便利なことがあります。)を参考に現在までの論点を整理したつもりです。議論が落着したら再構成する予定です。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月27日 (火) 08:05 (UTC)
Munasca氏の指摘 | 回答 |
現行の記事において冒頭を占めている「枠組み[1]」という節はゲーム理論を知らない人にとって[2]は分かりづらく、ゲーム理論に明るくない人の中には『枠組み』の項目で数多く定義される抽象的概念についていけず、(特に分量も大きいため)読むのを止めてしまう人もいるかもしれない[3]。たとえ意味が限定的であったり構成に多少矛盾点をきたしたとしても、ある程度具体的な例や著名な例を使って、そういったゲーム理論に明るくない人、数理的な推論が苦手な人にもゲーム理論のエッセンスを冒頭で理解してもらう形式[4]が望ましいのではないか。 | ①記事冒頭の目立つ位置に目次があり、各人の必要に応じた節が閲覧されることを想定している。どの節から読み始めても問題が生じないように各節の内容を独立させる等の工夫はしてある[5]。 ②ウィキペディア日本語版の方針曰くウィキペディアは百科事典であり教科書ではない。「ウィキペディアの目的は事実の提示であって、主題について教えることではありません。」という公式な方針に従う以上、「大学で学ぶ学問に興味を持った高校生であったり、また何かのきっかけで興味を持った社会人[6]」にゲーム理論を完全に理解して頂くことを目的とするのはウィキペディアとして不適切である[7]。そういった閲覧者を想定した解決策として「ウィキブックス」との連携が挙げられる。すなわち、記事内にウィキブックス内の「ゲーム理論」等記事へのリンクを作り、ウィキブックス内の記事を充実させてゆけば良い[8][9]。 |
「良質な記事」に立候補し実際に選定された「経済成長の黄金律」は経済成長理論に明るくない人であってもわかりやすく書かれており、誰が読んでも『経済成長の黄金律』の意味するところを理解できる[10]。「ゲーム理論」もゲーム理論を知らない大多数の読者に理解できるようにするために[11]「具体的な例とショートサマリーを合わせた導入的な項目[12]」を記事冒頭に置くべきである。 | 「ゲーム理論」と「経済成長の黄金律」は主題の性質が大きく異なる[13]。「経済成長の黄金律」は「ゲーム理論」で扱われ得る「非協力ゲーム」や「囚人のジレンマ」等のような細かなトピックに近く、他方「ゲーム理論」はそれらに対してより一般的な主題である。「ゲーム理論」において特定の個別トピックを中心的な説明として用いて「ゲーム理論」の偏った具体的な側面だけをあたかも「ゲーム理論のエッセンス[14]」であるかのように記載してしまうことは、明らかにウィキペディアの三大方針の一つであるWP:NPOVに違反する[15][16]。各論的なトピックは{{main}}や{{see also}}を活用して水先案内的に紹介していくべきであり、そのような「具体的な例」はリンク先に各論的な記事(「非協力ゲーム」など)の中で充実させてゆくべきである[17]。 |
具体例が「非協力ゲーム」に偏ってしまったとしても、その偏りは「ここでは非協力ゲームの例示を行ったが、異なる枠組みとして後述のように協力ゲームと呼ばれるものもある。」といった文章を入れれば解消されるレベルのことである[18]。 | 例えば実例として挙げられていた「囚人のジレンマ」は「非協力ゲーム」における「相互依存的な状況[19]」を説明する一例だが、「協力ゲーム」の題材としては不適切である[20]。冒頭で具体例を挙げることの重要性を主張しながら、特定の勢力である「非協力ゲーム」の具体例だけを挙げることに意義があるとは思われず、また明らかなWP:NPOV違反である。かといって個々の枠組みについて逐次説明する構成を採ればそれは現状の構成と大差なく「サマリー」でもなくなってしまう。 |
「経済成長の黄金律」は誰が読んでも「経済成長の黄金律」の意味するところを理解できるので良質な記事に選出された。秀逸な記事にしろ良質な記事にしろ、学術雑誌の査読過程とは異なり、ゲーム理論を知っている人だけが選考に参加するわけではないので現状のままではどちらにも選ばれない[21]であろう。 | 「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考#良質な記事の目安」によれば「良質な記事」の選定基準は「ウィキペディアの三大方針やスタイルマニュアルに則した形式で記事が書かれているか」のみであって、「理解しやすさ」のような内容は選定基準ではない[22]。また「秀逸な記事」の方の「目安」では、「高度に専門的な主題を扱ったものであれば、関連記事を読んで理解していることを前提にするのは問題な」く、むしろ閲覧者の理解を促すために「関連記事との連携・分担関係にもよ」って必要な百科事典として必要な記述をカバーすることが要求されている[23]。 |
論拠となり得るルール |
取り消しの理由について
[編集]Munascaさんの編集[24]に根本的な複数の問題があると判断し、編集を取り消してしまいましたが、その理由が編集の要約欄に入りきっていなかったようなので、ここで解説させて頂きます。
- まず客観的な要素として脚注出典が殆どなく、各記述の情報に出典を付けていたそれまでの記事の質を著しく低下させていると判断できます。これはWP:CSに違反しています。もちろん、「唯一の出典であるギボンズ 1995, pp. 2–5と新掲部分の情報が一致していればその都度脚注がなくても問題ない」という考えもあるかもしれませんが、以下に述べるように新掲部分の記述内容に致命的な誤りが見られます。出典の情報から逸脱したこれらの記述はWP:NORに抵触するでしょう。
- 「囚人のジレンマ」に関する誤りとして、「囚人Aと囚人Bが共に合理的であり、それが共有知識となっているのならば」の部分が挙げられます。(おそらく学部レベルの授業でも強調されるであろう)ゲーム理論における「囚人のジレンマ」の重要な性質として、(自白, 自白)という戦略ベクトルが強支配戦略均衡として実現されることが挙げられます。これは、「囚人Aと囚人Bが共に合理的であり、それが共有知識となっているのならば」という条件が成り立たなくても(自白, 自白)が実現することを意味しており、前掲のギボンズでもそのことが強調されていたはずです。共有知識の説明にも理解しがたいものがありますが、ここで重要なのは合理性の定義であるはずです。このような節をお作りになりたいならせめて教科書を理解した上で行って頂きたいです。
- 本記事はあくまでも「ゲーム理論」であって「非協力ゲーム」ではありませんが、新掲節ではあたかも本記事が「非協力ゲーム」であるかのように記述が繰り広げられています。「ゲーム理論」の過去および現在における「協力ゲーム」の重要性はゲーム理論の大家である鈴木光男さんも繰り返し述べられている所であり、本記事でもその旨を再三紹介したつもりでしたが、伝わっていないようで無念です。「非協力ゲーム」に偏重した新掲節の記述は明らかにWP:NPOVを犯しています。
- また前述の通り「ナッシュ均衡」を導入する必要のない「囚人のジレンマ」だけを以て「非協力ゲーム」の「サマリー」を形成することにも大きな問題があると思います。さらに「非協力ゲーム」の最重要概念である「ナッシュ均衡」の説明が杜撰です。
- また「相互依存的な状況」というキーワードが出てきていますが、専門家によって用いられている専門用語なのか、編集者による造語なのかが不明です。記事全体の「サマリー」としての記述ならば、記事随所に見られる用語がキーワードであるべきで、「サマリー」にしか出てこない用語を中心に「サマリー」を形成したら、もうそれは「サマリー」ではありません。
- 非専門家による無責任な一般書によって「ゲーム理論=囚人のジレンマ」とか「ゲーム理論=利得行列」という誤った認識が広まってしまったことを嘆くゲーム理論家を何度も見たことがあり、本記事でも利得行列を説明に用いる際にはそれが2人有限ゲームでしか用いられない(実は複数の利得行列を用いてn人有限ゲームを表記する方法もありますが一般的ではありません)ことを強調する等工夫してきたつもりでしたが、それをいきなり冒頭に持ってこられてつい頭に血が上り「取り消し」をしてしまいました(本来ならば{{疑問点範囲}}を添付した上でノートで議論するべきだったかもしれず、申し訳ありません)。利得行列の書き方も私がこれまで教科書(ギボンズ含む)や論文で見たことのある書き方とは異なっており、戸惑いを隠せません。ウィキペディアである以上、我流の表記を用いることは許されません。
申し訳ありません。ご理解ください。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月25日 (日) 20:53 (UTC)
追記 一部感情的になってしまい申し訳ありませんでした。現行の構成では①岡田(2011)を中心とした導入部→②協力ゲームと非協力ゲームの区別→③協力/非協力ゲームそれぞれの表現形式→④ゲームの構成要素、という構成を採っていますが、①と②の間に何らかの節を置く必要があるとお考えの方はおられるのでしょうか?協力/非協力ゲームの区別をする以前の節なので協力・非協力ゲームのどちらにも当てはまる一般的な内容を扱う節にならざるを得ませんが、そうなると戦略形表現の協力・非協力ゲームをそれぞれ説明する位しか思いつきませんが、そうなると④と③について②の前に言及する、という偏奇な構成にならざるを得ません。ゲーム理論#パラダイムとしてのゲーム理論の節を冒頭に持ってくることも出来ますが、メリットが思いつきません。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月25日 (日) 23:31 (UTC)
- コメント削除前後の記事を読み返しました。確かにMunasca様のご発言にあるように、ショートサマリーはあるとよい場合もあります。ただし、今回の加筆についてはミクロ経済学(会話)様の指摘が全く無い完璧なものであったとしても不要であると思います。既に、冒頭でかなりの分量で「これから説明したいこと」は記載されているからです。結果としてサマリーの二段構成になって読者としては読みにくいものになると思われます。
- 「仁」を知らなかった私が言うのも何ですが、実際のサマリーの文章は???の連続です。そのことで、ミクロ経済学(会話)様が削除されたのも致し方が無いと思います。ここまで超大作を作成すると「感情移入」もありますから尚更だと思います。
- ただ、取り消しの理由の中の一部記載については感情移入しすぎの感は否めません。もちろんミクロ経済学(会話)様も謝罪をしておられるのですからMunasca様もご納得頂けると期待しております。
- 皆様が目指す方向は「ゲーム理論」をWikipediaのルールに従って正しく、百科事典の一項目として掲載することにあるわけですから、その一点に集中して前に進めば良いと思います。私は周辺の部分でお手伝いができたらお手伝いしたいと思っております。今後も、発展的が会話が進むことを心より願っております。何事もWikipediaの基本原則「善意にとる」で進めていきましょう。--Earthboud1960(会話) 2016年9月26日 (月) 00:51 (UTC)
- リバートされるのは編集者の判断ですから構いませんが、厳密な記述や構成を目指しすぎると分量が長いだけに、ゲーム理論を知らない人にとっては以前の版より読みづらい記事になるかもしれませんよ。特に『ゲーム理論』という言葉は人口に膾炙してますから、専門的に学ばない人も記事を読む機会が多いはずです。--Munasca(会話) 2016年9月26日 (月) 03:29 (UTC)
「具体的な例とショートサマリーを合わせた導入的な項目」の必要性
[編集]コメント百科事典ですから厳密な記述や構成を目指すのが大前提になると思います。しかる後に、ダイジェスト的なものという順番では無いでしょうか?また、人口に膾炙しているので入門書は多数発行されています。また、ゲーム理論から鈴木光男にジャンプすれば読みやすい入門書なども検索可能です。オンラインでハイパーテキストの百科事典のメリットをユーザーも充分理解していると思います。--Earthboud1960(会話) 2016年9月26日 (月) 04:15 (UTC)
- 今の記事ですと、ゲーム理論を知っている人からは厳密な記事だ、優れた記事だとみなされても、ゲーム理論に明るくない人の中には『枠組み』の項目で数多く定義される抽象的概念についていけず、(特に分量も大きいため)読むのを止めてしまう人もいるかもしれません。だとしたら、たとえ意味が限定的であったり構成に多少矛盾点をきたしたとしても、ある程度具体的な例や著名な例を使って、そういったゲーム理論に明るくない人、数理的な推論が苦手な人にもゲーム理論のエッセンスを冒頭で理解してもらう形式になっている方が(紙面の大きさが限定されず、あらゆる人々がアクセスする)オンライン上の百科事典としてあるべき姿ではないのかな、と私は考えております。もちろん厳密な構成に基づくことや詳細な記述を増やすことも重要でしょうが。--Munasca(会話) 2016年9月26日 (月) 07:45 (UTC)
- 私は本記事の構成や扱うトピックを選ぶ際に「非協力ゲーム」でも「協力ゲーム」でもなくあくまでも「ゲーム理論」という主題として扱うことのできる内容という観点を強く意識しました。これは、①ゲーム理論の内部に非協力ゲームと協力ゲームという2つの勢力がありどちらかに偏ってしまうと(ウィキペディアの根底を成す)WP:NPOVに抵触してしまう、②実際のゲーム理論の文献を見ると非協力ゲームと協力ゲームは内容が分断されており「ゲーム理論」として両者の具体的な内容に踏み込むのは困難である、③ウィキペディア内には容易に新規ページを作成することが可能であり内部リンクも閲覧者にとって便利なので主題から逸れる「非協力ゲーム」や「協力ゲーム」の内容を「ゲーム理論」で扱う必要がない、④具体的な例や理論を教科書的に解説し始めると「ウィキペディアは教科書ではありませんという方針を破りかねない、等の理由からです。Munascaさんが「枠組み」の内容を「抽象的」と感じられたのは、このような「非協力・協力ゲーム個々の内容は個々のページに任せ、本記事では両者に共通する一般的な枠組み・歴史・思想などを(出典を明記した上で)百科事典的に紹介する」という編集スタンスが原因でしょう。既に述べた「ゲーム理論」という主題の特性上、本記事は内部リンクや参考文献を紹介するための水先案内的な役割に徹するべきではないか、と私は思っており、(ましてや内容の信頼性を落としてまで)閲覧者にゲーム理論の具体的な内容を理解して頂くこと目的にするのは些か無謀な試みに感じられます。したがって、Munascaさんの指摘された問題を解消するためには①{{main}}、{{See also}}などを有効活用��て閲覧者にとっての水先案内的な利便性を高めていくこと、②リンク先のページ(協力/非協力ゲーム、展開型/戦略型/提携型ゲーム、静学/動学ゲームetc.)を充実させること、等が必要であると考えております。◆「(特に分量も大きいため)読むのを止めてしまう人もいるかもしれません。」というご指摘については、ウィキペディアには冒頭の目立つ場所に目次があるので閲覧者は個々の求める内容が書いてありそうな節に容易にジャンプすることが出来るでしょうから、問題はないと考えております。また、各節同士は内容および表現の両面において独立しており、どの節から読んでも大きな問題は生じないように心掛けて編集をしてきたつもりではあります。それでも分かりにくいと思われる箇所がありましたら、Earthboud1960さんがなさってくれたようにノートページで質問して頂ければ、表現を変えたり出典を追加する等の改善をします。◆「数理的な推論が苦手な人にもゲーム理論のエッセンスを冒頭で理解してもらう」べきというご指摘については、たった数行程度の節で「ゲーム理論のエッセンス」を説明することは相手が数学者であったとしても超難題であり、私には手に負えないと思います。おそらく本記事を読もうとしている「数理的な推論が苦手な人」は目次を見て「パラダイムとしてのゲーム理論」にジャンプすると想像しているのですが、その節をご覧になれば経済学や社会科学におけるゲーム理論の意義やそれまでの経済理論とどの点が本質的に異なるかを理解して頂けると思います。理論に関する節を後ろに回して「パラダイムとしてのゲーム理論」を冒頭に移すというご提案があれば検討の余地があるかもしれませんが、「ゲーム理論なのだからその理論的枠組みを先ず知りたい」という閲覧者の方が多数派であると想像しています。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月26日 (月) 09:46 (UTC)
- 今の記事ですと、ゲーム理論を知っている人からは厳密な記事だ、優れた記事だとみなされても、ゲーム理論に明るくない人の中には『枠組み』の項目で数多く定義される抽象的概念についていけず、(特に分量も大きいため)読むのを止めてしまう人もいるかもしれません。だとしたら、たとえ意味が限定的であったり構成に多少矛盾点をきたしたとしても、ある程度具体的な例や著名な例を使って、そういったゲーム理論に明るくない人、数理的な推論が苦手な人にもゲーム理論のエッセンスを冒頭で理解してもらう形式になっている方が(紙面の大きさが限定されず、あらゆる人々がアクセスする)オンライン上の百科事典としてあるべき姿ではないのかな、と私は考えております。もちろん厳密な構成に基づくことや詳細な記述を増やすことも重要でしょうが。--Munasca(会話) 2016年9月26日 (月) 07:45 (UTC)
- 返信 Munasca(会話)様仰っておられることは良く分かります。確かに概念についていけない人もでてくると思います。ゲーム理論がそんなに簡単な理論では無いので、網羅的に記述するとついていけない人もでてきます。Wikipediaはガイドブックでも入門書でも無くて百科事典なのですから、ついていけない人が出ても別に構わないのでは無いでしょうか?
- 「Wikipediaでゲームの理論読んだけどさっぱり分からん!!」という読者がいてもそれだけの話です。ゲームの理論の部分をアインシュタインの一般相対性理論に置き換えても、同じ事がおきると思います。
- 「さっぱりわからん!!」から先は読者の行動次第だと思います。本屋へ行って「入門ゲームの理論」的な本から読み始めて勉強するのも自由ですし、「さっぱりわからん!!」でゲーム理論と縁が無くなってもそれは読者次第です。ゲーム理論知らなくても麻雀強い人は山のようにいます。
- 少し話が脱線しましたが、まずはゲーム理論の完成に力を注ぎ、その後「さすがに、にこれでは...」となったときに、サマリー的なものがあってもよいのかも知れません。ただし「意味が限定的であったり構成に多少矛盾点がある」というのは百科事典の記事として如何なものかと思います。読者を混乱に陥れるだけのような気がします。
- 私の返信の中で、不愉快に感じられた部分も多々あるともいます。ただ、議論を重ねることによってより良きWikipediaにしていきたいという考えは、今後ともMunasca(会話)様、ミクロ経済学(会話)様と共有していると信じております。今後ともよろしくお願いします。--Earthboud1960(会話) 2016年9月26日 (月) 10:06 (UTC)
- 返信 「秀逸な記事の目安」によれば、「高度に専門的な主題を扱ったものであれば、関連記事を読んで理解していることを前提にするのは問題な」く、むしろ閲覧者の理解を促すために「関連記事との連携・分担関係にもよ」って必要な百科事典として必要な記述をカバーしていくことが重要です。したがって、本記事の主題が 「ゲーム理論」である以上、「非協力ゲーム」や「協力ゲーム」に関する個別の内容について本記事を読んだだけで理解できるように編集する必要はなく、むしろ個別事項は個別記事に任せて、個別記事では扱いにくい「ゲーム理論」の内容ーー協力ゲームと非協力ゲームの関係、戦略形ゲームと提携形ゲームの関係、非協力ゲームと協力ゲームに共通するゲーム理論の学説史的意義や思想的背景、対象分野ごとに整理されたゲーム理論の応用研究、等々ーーを充実させていくべきだと考えております。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月26日 (月) 11:21 (UTC)
- 例えば経済理論についての記事で唯一良質な記事に選出されている経済成長の黄金律では、黄金律の数学的に厳密な定義とその導出は後方の『黄金律の定理』の項目で初めて出てきます。しかしながら、記事全体の流れとして黄金律とは何なのか、どういった歴史・文脈で登場したのか、それがどういう意味を持つのか、そして他の経済成長理論の概念とどのように関わっているのか、が説得的かつ経済成長理論に明るくない人であってもわかりやすく書かれています。このような構成で非常に充実した記述であるからこそ、誰が読んでも『経済成長の黄金律』の意味するところを理解できるので良質な記事に選出されたのだろうと私は思います。現状のゲーム理論の記事は非常に厳密かつ重厚な内容ではありますが、残念ながらそのような可読性といった点で劣ると思います。例えば『枠組み』の項目にしても具体的な例やゲーム理論的な考え方を知っていれば、その記述内容を理解可能ですが、それを知らないと正直言って言葉や定義だけが並んでいるように見えます。『パラダイムとしてのゲーム理論』もそうですが、ゲーム理論を知っていればそこで紹介されるマルクス経済学や一般均衡理論的な考え方との違いもよく理解できます。ですが、大多数の読者はゲーム理論を知りませんし、『パラダイムとしてのゲーム理論』を読んで「ゲーム理論のパラダイム」が分かる構成になっていません。しいて言えばゲーム理論のパラダイムは「完全競争」という概念を仮定していないということしか理解できないでしょう。使いどころが限られたり膨大な前提知識を必要とする数学の定理についての項目などであれば、読者にある程度の前提知識を課す書き方であったとしても大して問題にならないかもしれませんが、『ゲーム理論』はそのような項目であるとは思えません。大学で学ぶ学問に興味を持った高校生であったり、また何かのきっかけで興味を持った社会人がこの項目を閲覧する可能性もあるでしょう。秀逸な記事にしろ良質な記事にしろ、学術雑誌の査読過程とは異なり、ゲーム理論を知っている人だけが選考に参加するわけではありませんから、現状のままではどちらにも選ばれないと私は思います。あと私の更新の内容に関して言えば、「相互依存的な状況」を強調した理由はリードセクションで言及されてはいますが、説明が足らないように思えたからです。また強く支配される戦略と共有知識に関する項目については、確かに囚人のジレンマでは共有知識の前提は必要ないので不適当であったかもしれません。ただ強く支配される戦略の逐次消去を考えると、共有知識の前提は必要になってきますので、その考えに引きずられて書いてしまった部分はあります。また非協力ゲームに偏っているという指摘は確かにそうですが、それは現状としてほぼ使われてない協力ゲームに関する例示を出すことがはばかられたからです。ただこの偏りも「ここでは非協力ゲームの例示を行ったが、異なる枠組みとして後述のように協力ゲームと呼ばれるものもある。」といった文章を入れれば解消されるレベルのことだと思います。--Munasca(会話) 2016年9月26日 (月) 11:38 (UTC)
- 返信 「秀逸な記事の目安」によれば、「高度に専門的な主題を扱ったものであれば、関連記事を読んで理解していることを前提にするのは問題な」く、むしろ閲覧者の理解を促すために「関連記事との連携・分担関係にもよ」って必要な百科事典として必要な記述をカバーしていくことが重要です。したがって、本記事の主題が 「ゲーム理論」である以上、「非協力ゲーム」や「協力ゲーム」に関する個別の内容について本記事を読んだだけで理解できるように編集する必要はなく、むしろ個別事項は個別記事に任せて、個別記事では扱いにくい「ゲーム理論」の内容ーー協力ゲームと非協力ゲームの関係、戦略形ゲームと提携形ゲームの関係、非協力ゲームと協力ゲームに共通するゲーム理論の学説史的意義や思想的背景、対象分野ごとに整理されたゲーム理論の応用研究、等々ーーを充実させていくべきだと考えております。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月26日 (月) 11:21 (UTC)
- ミクロ経済学(会話)様、Munasca(会話)様で意見の相違はありますが、私は賞を取る事が一番の目的では無いと理解しております。まず、本格的にゲーム理論を書き直したいとの思いからミクロ経済学(会話)様は「ゲーム理論」を書き出されたわけですし、その中で一つの目標として「秀逸な記事」をあげられたのだと思います。
- 確かに賞を取るにはMunasca(会話)様の意見は大変参考になると思います。ただ、今の段階で賞を取るための計算をしながら編集をするのは時期尚早だと思います。書くのは大変ですが、削るのは簡単です。まずはミクロ経済学(会話)様が書きたいように書き、書き上がった時点で賞を取りに行くための加筆修正を考える。と言う方法は駄目でしょうか?今はミクロ経済学(会話)様の若さゆえになせる、馬力にものを言わせてガンガン書きたいだけ書かれるのがよろしいのでは無いでしょうか?(少々失礼な言い回しになりましたがご容赦ください。)
- 今後の記述内容によってはサマリー自体も変わっていく可能性があると思います。また、サマリーも一ヶ所だけにとどまらない可能性だってあると思います。
- Munasca(会話)様の本格的な出番は、ガンガン書きたいだけ書かれた後では無いかと思います。Munasca(会話)様にとっては、相当大変な作業になるともいますが、お二人の合作で見事「秀逸な記事」になるのがベストだと思います。私は、赤字になっている部分を少しでも青字になるよう、周辺の整備に精を出します。(「楽しやがって!!」とのご批判はそのとおりなので、甘んじて受けます。スキル知識ともに大きく不足しておりますのでご容赦ください。)--Earthboud1960(会話) 2016年9月26日 (月) 12:53 (UTC)
- コメント 「秀逸な記事」(や「良質な記事」)について誤解があるようなので補足。「秀逸な記事」や「良質な記事」を「賞」と誤解されているようですが、「秀逸な記事」は「年間で最も優れた記事に与えられる称号」の類ではなく「良い記事が書き上げられたら立候補(推薦)し、『秀逸な記事』の基準を満たしているかどうかの投票をして賛成のみ3人以上の状態が1週間続けば合格」というルールだったと思います。本記事は「明らかに未完成な部分がない」以外の「秀逸な記事の目安」を満たしていると考えられ、「未完成部分を埋めること」に特化すれば来月にでも「推薦」できる程度の記事の質があると自負しております。とはいえ、もう少しゆっくり全体的に記事を向上させていきたいので今年中に「推薦」することはないと思います。何れにせよ、(「明らかに未完成な部分がない」を除く)「秀逸な記事の目安」はまともに記事を作るための必要条件と私は認識しております。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月26日 (月) 16:15 (UTC) 追記 「良質な記事」の選定基準は記事の文体や構成がウィキペディアの三大方針とスタイルマニュアルに矛盾していないこと、すなわち形式のみが基準とされており、「内容の充実」や「質」などは問題とされておりません。したがって、「このような構成で非常に充実した記述であるからこそ、誰が読んでも『経済成長の黄金律』の意味するところを理解できるので良質な記事に選出されたのだろうと私は思います。」、「秀逸な記事にしろ良質な記事にしろ、学術雑誌の査読過程とは異なり、ゲーム理論を知っている人だけが選考に参加するわけではありませんから、現状のままではどちらにも選ばれないと私は思います。」というMunascaさんのご指摘は事実誤認に基づくものと思われます。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月27日 (火) 07:25 (UTC)
- 返信 私も記事冒頭に「概要」の類の節を挿入すること自体に反対している訳ではありません。しかし、具体的な例を冒頭に持ってくる構成は「ゲーム理論」という主題の性質上不可能だと思います。再三申し上げている通り、Munascaさんが「『相互依存的な状況』とは」として挙げたような具体的なゲームの例は、「ゲーム理論」という概念の具体的な形態ではなく、「非協力ゲーム」、「静学ゲーム」、「囚人のジレンマ」などといった概念の具体的な形態である、という点をご理解ください。つまり、「経済成長の黄金律」がある分野の具体的な概念であるのに対して、「ゲーム理論」は分野そのものであるという点で両者が大きく異なる訳です。同じ経済理論に関する記事であっても(例えば)「経済成長の黄金律」、「ゲーム理論」、「二階堂の補題」の三つでは「どういった閲覧者がどのように理解することを想定するか」は三者三様になるはずであり、少なくとも「経済成長の黄金律」は我々の模範としては不適切でしょう。◆Munascaさんのコメントを拝見していると「ゲーム理論=非協力ゲーム」と認識されているように思えてなりません。「現状としてほぼ使われてない協力ゲームに関する例示を出すことがはばかられたからです。」と仰いますが、現状の本記事は「非協力ゲーム」特有の概念や枠組みを説明することを避けており、協力ゲームの例示が特段なされていない、と認識されるのは単に両者の区別が理解されていない結果ではないでしょうか。またMunascaさんが例示された「囚人のジレンマ」に現れる「相互依存的な状況」と協力ゲームで現れる「相互依存的な状況」は全く異なるものであり、「囚人のジレンマ」を説明して「これがゲーム理論における相互依存的な状況だ!」と記載することは「協力ゲーム」軽視以外の何物でもないと思います。Munascaさんの述べられている「具体的な例やゲーム理論的な考え方を知っていれば、その記述内容を理解可能ですが」や「ゲーム理論を知っていれば」の部分は本記事で紹介されている「ゲーム理論」ではなく「非協力ゲーム」のことを指しているように感じられるのです。私が「協力ゲームと非協力ゲームに共通する性質」についてお話ししているときにMunascaさんは「非協力ゲーム」を思い浮かべておられるようで、然るに話が噛み合わないのだと思います。◆本記事では冒頭に{{main}}で「非協力ゲーム」と「協力ゲーム」の記事を閲覧者に紹介しており、また、最初の見出しである「協力ゲームと非協力ゲーム」には全く数式が出ていませんし、両者の区別を丁寧に行っているつもりなので、Munascaさんのように「非協力ゲーム」にご関心をお持ちの閲覧者は冒頭部分を読んだ段階で「非協力ゲーム」の記事にもジャンプするのが自然だと思います。ですから、「非協力ゲーム」の具体例を記載されたいのであれば、「ゲーム理論」ではなく「非協力ゲーム」の記事を編集されてはいかがでしょうか。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月26日 (月) 12:57 (UTC)
追記 『パラダイムとしてのゲーム理論』を読んで「ゲーム理論のパラダイム」が分かる構成になっていません。しいて言えばゲーム理論のパラダイムは「完全競争」という概念を仮定していないということしか理解できないでしょう。ーーというご意見を頂いたので記述を改善しようと見直していたのですが、「パラダイムとしてのゲーム理論」の節の内容は①ゲーム理論はプライステイカー(完全競争)の仮定をしていない点で新古典派と異なる、②ゲーム理論は80年代以降「正統派」の位置に就いたがかつては「異端」であった、の2点だけなので「ゲーム理論のパラダイムは「完全競争」という概念を仮定していないということしか理解できないでしょう。」というのは十分過ぎる理解であり、「ゲーム理論を知らない大多数の読者」からそういった理解をして頂けるのであれば大満足です。因みに、導入部で引用した岡田(2011)の「ゲーム的状況」とMunascaさんの仰る「『完全競争』という概念を仮定していないということ」がイコールの関係である、というのが私の理解です(出典の神取1994にそう明記してある訳ではないので記事中にそう書いたらWP:NORを侵犯しますが)。むしろ上記以外のゲーム理論というパラダイムが「正統派」になった具体的な経緯については本文に引用した通り「経済学説史上の大きな謎」(神取2010)なので、本記事を読んで「理解できた」などと仰る方がいらしたらこちらが困ってしまいます。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月26日 (月) 14:15 (UTC)
- コメントサマリーについては相対性理論のように、ウィキブックスを活用するという手もあると思ういます。ご一考ください。--Earthboud1960(会話) 2016年9月26日 (月) 20:50 (UTC)
- コメントミクロ経済学(会話)様、「秀逸な記事」について分かりやすく説明して頂きありがとうございます。私には縁遠い話なので勝手に「賞」の類いと理解しておりました。いずれにしても「秀逸な記事」になるにはミクロ経済学(会話)様が頑張って記事を充実させていくことが大切だと思いますので、無理しない程度に頑張っていただける事を期待しております。--Earthboud1960(会話) 2016年9月26日 (月) 21:01 (UTC)
- コメント なるほどウィキブックスと連携するというのは名案かもしれませんね。確かに「ゲーム理論は高校生や予備知識のない社会人でも感心を持つ可能性が高いので彼らにも理解可能な説明をすべきである」、「ゲーム理論は身近な問題や現象とも関連する理論であるから簡単な例を中心とした平易な説明が可能である」という論拠から「相対性理論などの専門的な記事とは違い、ゲーム理論は通読したら誰にでもその内容が理解できるような構成を採るべきだ」と主張される気持ちは分かります。しかし「相対性理論」も「小説や漫画などのフィクションにも頻出なので中高生が関心を持つ可能性が高い」、「NHK『100分de名著』(2011年11月放送)の佐藤勝彦氏[25]のように数式を一切使わずに直観的な具体例だけで説明することも可能である」のであって「ゲーム理論」だけウィキペディアの方針から逸脱してまで教科書路線に向かう必然性はないように思います。そういった意味で「非協力ゲーム」などの隣接記事との連携だけでなくウィキブックスとも連携するという方法は、閲覧者の利便性を向上させる上で非常に有効かもしれません。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月27日 (火) 03:23 (UTC)
- コメント 「非協力ゲーム」の内容を中心的に扱う編集の是非について。確かに「ゲーム理論」というタイトルの教科書の中には「非協力ゲーム」のみを取り扱っているものも少なくはなく、また大学院で必修講義として学ばれる「ゲーム理論」で「協力ゲーム」を扱うのは東工大以外では稀らしいので、標準的な方法で「ゲーム理論」を学ばれた方が無意識の内に「ゲーム理論の解説=非協力ゲームの解説」という認識を持っていたとしても不思議ではなく、むしろ自然だと思います。これは通常の方法で「マクロ経済学」を学ばれた方が「マクロ経済学=IS-LM分析+ソローモデル」という認識を持つのと同じ、と言えば分かりやすいと思います。もちろん、「ゲーム理論」とか「マクロ経済学」というタイトルの書物を書くのであれば、そのような認識に基づいた構成を採っても問題はないでしょう。しかし、ウィキペディアが百科事典である以上、「ゲーム理論」内の諸勢力や諸体系を満遍なくカバーし各要素間の関係が伝わるような構成を採る必要があります。そして各要素の詳細についてはそれぞれのページへのリンクを充実することで対処する、というのがウィキペディアとしての正しい編集スタンスだと思います。「マクロ経済学」の例で言えば、①「マクロ経済」という語はニュース等でも見聞きするため中高生が閲覧する可能性があるが、具体例を駆使して彼らに「マクロ経済学」を理解して頂くことを目標とすべきではないことは明らか、②中級書レベルでは「マクロ経済学=IS-LM分析+ソローモデル」であるが、「マクロ経済学」は実際には「動学的一般均衡理論」、「ラムゼイモデル」、「内生的成長」、「ポストケインズ派理論」、「マルクス派恐慌論」、「マンデルフレミングモデル」等々がありますので先述分野を中心に記述することは明らかにWP:NPOV違反である、③それぞれの個別の枠組みに関する解説は個別のページーー「経済成長理論」、「ポストケインズ派経済学」、「マルクス経済学」等ーーに任せるべきであり、具体例で説明可能な下位概念ーー「経済成長の黄金律」等ーーはさらに個別のページからリンクされるべきである、④したがって「マクロ経済学」の記事では個別の理論を解説するのではなく包括的な歴史や諸理論に共通する一般的な枠組みや用語の解説等を中心に構成される、といった指摘ができ、これらと同様の指摘が「ゲーム理論」にも言えるでしょう。「マクロ経済学」がそのような構成を採っていても不自然に思われないのに「ゲーム理論」が同様の構成を採ってはならない、と主張されるのであれば、納得のできる理由(「マクロ経済学」と「ゲーム理論」の記事としての性質上の違い)を説明して頂く必要があります。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月27日 (火) 04:08 (UTC)
- 報告 論題が移行してきたので、勝手ながら本節の名前を変更いたしました。また、本節の冒頭に既に挙がっている論点を整理した表を載せました。これは暫定的なものであって、本節の議論が進展・終了した際にまたより適切なものに編集する予定です。これらは新たにこのノートを閲覧された方や今後の議論の利便性を目的としたものです。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月27日 (火) 08:05 (UTC)
どこが分かりにくいかを明確に
[編集]提案 申し訳ないことに、この議論において大変重要なことを確認するのを忘れていました。すなわち、「枠組み」という節の具体的にどの記述が分かりにくいか、ということです。その問題を明確にしないまま解決策を議論しても話が噛み合うはずがなかったと思います。各見出しについて検討してゆく必要があると思うので一つ一つ確認していきましょう。◆先ず「協力ゲームと非協力ゲーム」について。この部分には数式は一切なく「ゲーム的状況の内拘束力のある合意の有無に応じてその状況が協力ゲームと非協力ゲームとに区別される」という要旨は中高生であっても理解して頂けると思います。さらに見出し冒頭に{{main}}を添付して「協力ゲーム」及び「非協力ゲーム」をリンクしてあるのは誰しもお気づきになるでしょうから、この「協力ゲームと非協力ゲーム」を読まれて「なんとなく『ゲーム理論』の記事を開いたが、私が関心のあったのは『非協力ゲーム』の方だな」とお考えになる閲覧者の方は「非協力ゲーム」の記事にジャンプするでしょう(「協力ゲーム」に関心のある閲覧者についても同様です)。したがって、とりあえず「協力ゲームと非協力ゲーム」の部分に関してはゲーム理論に明るくない人にとっても何ら問題はないと思いますが、いかがでしょうか?◆次に「ゲームの表現形式」の部分。この部分については「非協力ゲームと協力ゲームがそれぞれ何という表現形式で定式化されるのか」を理解して頂くことが第一だと思います。この点については冒頭に日本語で簡潔に示しただけでなく表も右に掲げておりますので、問題ないと思います。そして3つの表現形式について深く知りたい閲覧者の方については先と同様に{{main}}のリンクで各記事にジャンプすることが想定されます。またジャンプせずに本記事のみで読み進めた場合でも、(双行列ゲーム以外の部分については)全ての数式は(あたかも無いかのように)無視して読んでも意味が通るようになっているはずなので、数式があるからといって問題はない、というのが私の見解です。双行列ゲームの説明は比較的具体性のある例として加えた補足なのですが、それがあるせいでかえって混乱するようでしたら、除去するか脚注に回す等の措置も検討しましょう。なお、「展開形」と「提携形」については後日加筆すべき内容がありますので、実は未完成部分です。「ゲームの表現形式」の部分に関する私の見解は以上ですが、いかがでしょうか。◆「ゲームの構成要素」について。ここで閲覧者に理解して頂きたいのは「各表現形式がどのようなルールによって定式化される」であり、冒頭に掲げた表を見て頂ければ一目瞭然だと思います(もしこの表を見ても理解できない可能性があるといったご指摘があれば早急に説明文を改善します)。▼「プレイヤー」については数式は出てきませんし、具体的にどういったアイテムがゲーム理論においてプレイヤーとされ得るのかが具体例を列挙することによって明確に理解して頂けると思うのですが、難しいでしょうか。▼「戦略集合」については先述の「ゲームの表現形式」と同様に数式を無視しても意味が通るのでテクニカルな困難は生じないと思います。純戦略と混合戦略に関する説明では「じゃんけんゲーム」という大変分かりやすい例を用いておりますので、これ以上噛み砕いて説明する方法は思いつきません(ご存知ならノートにてご教授ください)し、例示する際に出典なき例を考え出すとWP:NORに抵触する恐れがあることを踏まえると、現状の説明が限界だと思います。▼「利得関数」については関数である以上、定義域と値域を明記せねばならないので数式を避けることは出来ませんが、数式が苦手な方であればわざわざ「〜関数」という名の見出しがついた記述を読まないでしょうし、「ゲームの構成要素」冒頭を読んで「ゲームの構成要素(ルール)として利得関数というものがあり、プレイヤーの利得と関係している概念なんだろうな」と思って頂ければ十分ではないでしょうか。必要があれば前掲の「じゃんけんゲーム」との関係について追記することも検討しますが。▼「特性関数」については「利得関数」と同様ですが、「特性関数」に関心のある閲覧者は(それまでの表を理解していれば)「提携形ゲーム」を参照するでしょうから、あまり詳しく解説していません。ただし、金銭移転が���可能なケースの戦略形協力ゲームと通常の提携形協力ゲームの関係に関して後日加筆するかもしれません。▼「情報構造」については全く記述がありませんが「ゲームの表現形式」の「展開形ゲーム」の加筆と合わせて今後書くつもりです。これらの項目は「展開形ゲーム」の記事のみと内容が重複し、さらに比較的テクニカルなので、内容については構想中です。◆「ゲームの解概念」について。お分かりの通り未完成です。各解概念については各記事にリンクすればいいので、概念同士の関係性やゲーム理論における意義などについて述べる予定です。これらについても数式を読み飛ばしても理解可能な内容に出来ると思います。◆以上が、Munascaさんが問題とされた「枠組み」の各記述に対する私の見解ですので、それを踏まえた上で閲覧者にとって不便な部分がありましたら、お知らせください。全体的に、通常の教科書に載っているような定義と説明ではなく(それらは個々の記事に任せるべきと判断したため)概念間の関係やゲーム理論における意義を記載したつもりです。この私の編集方針が「枠組み」の記述が「抽象的」に見える原因だと思います��、教科書的な説明や個々の記事に掲載されるべき内容と比べるとむしろテクニカルさが薄くなっていると思います。--ミクロ経済学(会話) 2016年9月27日 (火) 12:16 (UTC)