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エンゼル館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エンゼル館
Angel Kwan
サイレント時代の絵葉書
情報
正式名称 エンゼル館
完成 1913年
開館 1913年
閉館 1957年
用途 映画上映
所在地 北海道札幌区北2条西3丁目[1]
(現在の北海道札幌市中央区北2条西3丁目)
位置 北緯43度03分51秒 東経141度21分03秒 / 北緯43.0640339度 東経141.3508605度 / 43.0640339; 141.3508605 (エンゼル館)座標: 北緯43度03分51秒 東経141度21分03秒 / 北緯43.0640339度 東経141.3508605度 / 43.0640339; 141.3508605 (エンゼル館)
最寄駅 札幌駅
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エンゼル館(エンゼルかん、英語: Angel Kwan)は、かつて存在した日本の映画館である。のちに松竹エンゼル館(しょうちくエンゼルかん)と改称した[注 1]

概要

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北海タイムス』1927年4月22日付に掲載された同館の広告。

ジェームズ・ガーディナーのガーディナー建築事務所の技師荒木賢治が設計・施工した[3]。経営したのは、江戸・本所出身の佐藤市太郎で、1907年明治40年)に旭川1910年(明治43年)に札幌、1911年(明治44年)に小樽、室蘭、帯広釧路常呂郡野付牛村(現在の北見市)にそれぞれ「神田館」という活動写真常設館(現在でいう映画専門館)を建設した人物である[4]1960年昭和35年)発行の『旭川市功労者伝』には、エンゼル館が札幌の神田館と同じ年に建てられたとあるが[4]1913年大正2年)7月9日の『北海タイムス』の記事によれば、「大正2年」(1913年)に竣工、開業したと報じられている[3]

1927年(昭和2年)4月22日付『北海タイムス』に同館が出した広告によれば、沼田紅緑監督の『江戸嵐』や富沢進郎監督の『漂泊の人』のようなマキノ・プロダクション製作の新作だけでなく、マキノ映画製作所1923年(大正12年)に製作した沼田監督の『鮮血の手型 前篇・後篇』のような旧作や、パラマウント映画1925年(大正14年)に製作したA・エドワード・サザーランド英語版監督の『恋の勝鬨英語版』といったアメリカ映画も、同じ週の番組として上映していた[5]。同年、報知新聞の招待で来日したノルウェーの探検家ロアール・アムンセンが札幌での講演を、同年7月3日、同館で行っている[6][7]

1953年(昭和28年)の時点で札幌市内の映画館は17館に増加[2]。その後も札幌日活劇場東宝日本劇場東宝公楽劇場などが相次いでオープンし競争が激化。エンゼル館は1957年(昭和32年)に閉館した[8]。跡地は現在、札幌フコク生命越山ビルの敷地の一部である[9]

おもな上映作品

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1950年にエンゼル館で上映されていた大映作品『白雪先生と子供たち』(監督・吉村廉)。ポスター写真右上は主演の原節子

脚注

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注釈

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  1. ^ 1953年の映画館(北海道地方) 「消えた映画館の記憶」を参照した[2]

出典

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  1. ^ 『新札幌市史 第3巻』675頁
  2. ^ a b 『全国映画館総覧 1953年版』 時事通信社、1953年
  3. ^ a b 松波秀子「9050 ガーディナー建築事務所のスタッフ、荒木賢治と上林敬吉について : 日本聖公会の建築史的研究 4」『学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠』第1995号、日本建築学会、1995年7月、99-100頁、ISSN 13414542NAID 1100041405582020年7月20日閲覧 
  4. ^ a b ヌプンケシ33号”. 北見市 (2002年10月1日). 2012年6月11日閲覧。
  5. ^ a b c d e 北海タイムス』、1927年4月22日付、第2面。
  6. ^ 『北海道新聞』夕刊、2011年7月28日付。
  7. ^ 昭和二年” (PDF). 北大青年寄宿舎. 北海道大学. 2012年6月11日閲覧。
  8. ^ 「映画興行界に秋の風 客足グッと落ちる 一つ閉館 たたる共食いと乱戦」『北海道新聞』1957年9月11日、8面。
  9. ^ 札幌市制紀念人名案内図”. 札幌市中央図書館. 2024年3月26日閲覧。

参考文献

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  • 『旭川市功労者伝』、編旭川開基七十周年記念行事実行委員会、発行旭川市、1960年9月