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両國梶之助 (1874年生)

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両國梶之助(りょうごく かじのすけ、1874年3月15日 - 1949年1月11日)は、大相撲力士である。出羽海部屋所属。最高位は小結長崎県諫早市出身、本名は古川九八。現役時代の体格は165cm、90kg。得意手は一本背負い襷反りなど。引退後、年寄・6代出羽海となり角界の最高実力者として権勢を振るった。 

来歴

農家に生まれ土地相撲で活躍、大坂相撲時津風に入門した(のち不知火部屋に移籍。不知火には入門を断られたことがある)。四股名は九(いちじく)、のち一軸(読みは同じ)、國岩と改めて大坂相撲で活躍、東京相撲の大関荒岩とともに「東西の両岩」と並び称された。その頃東京相撲を脱走して大坂で取っていた常陸山との出会いが運命を変えた。同い年だった國岩と常陸山は意気投合し、東京へ戻った常陸山の後を追うように1902年明治35年)常陸山に入門、翌1903年(明治36年)1月場所、両國梶之助と改めて幕内格付出で東京での初土俵を踏んだ。

いわゆる手取り型の相撲で多彩な技を繰り出して東京でも活躍、1905年(明治38年)5月場所には小結に昇進した。この場所は全休して三役はこの場所限りだったが横綱2代梅ヶ谷を倒すなど主に幕内上位で相撲を取った。大関昇進前の太刀山に強く対戦成績は4勝4敗の互角だった。1912年(明治45年)1月場所を最後に引退、年寄・12代入間川を襲名した。

引退後は入間川部屋を興して多くの力士を育てながら常陸山を補佐、1922年大正11年)に常陸山が没すると、その跡を継いで出羽海部屋を率いた。その際に常陸山に敬意を表して「出羽ノ海」の「ノ」を取り、「出羽海」と改めた。これが現在まで続いている。常陸山が一代で角界随一の名門に育て上げた部屋を盛り立て番付の片側を出羽海一門が占めるほどの隆盛を極めた。出羽海継承後も横綱武蔵山や大関五ツ嶋関脇新海両國笠置山らを育てた。

温厚で頭脳明晰な人柄でもあり相撲協会の取締筆頭格として1927年昭和2年)の大坂相撲との東西合併などで辣腕を発揮した。大関で3場所連続優勝を果たした玉錦の品格を問題視して横綱に昇進させなかったのは、日本刀を振り回す玉錦に追い回された逸話(実話ではないとも言われている)とともに当時の出羽海の権勢ぶりを伝える話として有名である。しかし、関東大震災で焼失した両国国技館再建時の負債に加え角界の悪弊として残っていた不明朗な財政体質、さらに東西合併で抱え込んだ多くの冗員など問題は山積だった。これらが爆発したのが1932年(昭和7年)1月に発生した春秋園事件であった。常陸山からの預かり弟子で自らの付き人にしたこともある天竜が企てたこの事件により、番付の西方20名中19名いた出羽海部屋の幕内力士全員を含む幕内29名、十両19名、幕下以下5名が一挙に脱退、予定していた1月場所を延期する事態に及んだ。この責任を取って出羽海は取締を辞職、相談役に退いた。その後も部屋の経営は続け、1949年(昭和24年)1月11日、74歳で没した。

主な成績

  • 幕内在位:19場所(うち小結1場所)
  • 幕内成績:48勝48敗20分5預69休 勝率.500
  • 金星:1個(2代梅ヶ谷。1905年1月場所)

関連項目