Wikipedia:削除依頼/火消
このページは以下にある削除依頼の議論を保存したものです。さらなる議論が必要な場合は当該ページのノートで行ってください。このページは編集しないでください。
議論の結果、削除 に決定しました。
削除の方針のケースB-1、ウィキペディア外の著作物(書籍・ウェブサイトなど)からコピーしたもの、および、同一性が高いものに該当すると思います。詳細はノート:火消で述べられていますので確認をお願いします。--Tondemonai 2009年9月12日 (土) 07:51 (UTC)[返信]
- (コメント)どうも投票資格は無いらしいので、皆様の判断にお任せです。--Tondemonai 2009年9月12日 (土) 07:51 (UTC)[返信]
- コメント:お手数をおかけします。現在初版を執筆して頂いた方のレスポンスを待っております。音信が無ければ削除は止むを得ないかなと考えていますが、私からの投票はもう暫く静観させてください。--R.Lucy 2009年9月13日 (日) 05:46 (UTC)[返信]
- (R.Lucyさんへのコメント)R.Lucyさんの初版作成者に対する呼びかけを無視した形での削除依頼提出となり、申し訳ありません。しかし、この記事は新着投票所に推薦されていて、すでに多くの票が投じられていました。複数のサイトからコピペされた文章が主体となる記事が、ウィキペディアのトップページを飾るのはまずいでしょうと考え、早期の提出を決断したのです。ご容赦ください。(念のため。コピペ呼ばわりしているのは、あまりにも一致箇所が多すぎるというかぶっちゃけ複数のサイトから文章をそのまんま持ってきて組み合わせて作られた記事と判断しているからですが、これはわたしの主観にすぎませんね。皆様の判断にお任せです)--Tondemonai 2009年9月13日 (日) 06:37 (UTC)[返信]
- (反対)ノート:火消においてコピペと指摘された部分は、歴史的事実に関わる記述であって創作の余地がなく、他の史料によってもその内容は裏付けられています。また、かかる事実を時系列に沿って整理し、明確に表現した文章とすることを心がけたつもりで、「あまりにも一致箇所が多すぎるというかぶっちゃけ複数のサイトから文章をそのまんま持ってきて組み合わせて作られた記事」とは甚だ心外な誹謗と考えます。どの文章が「あまりにも一致箇所が多すぎるというかぶっちゃけ複数のサイトから文章をそのまんま持ってきて組み合わせて作られた」ものなのか、ご指摘ください。--新芽 2009年9月14日 (月) 01:57 (UTC)[返信]
(コメント)皆様にお任せするつもりでした。しかし……初版作成者がこの削除依頼にだけは登場して(ノート:火消でのR.Lucyさんの質問には回答していない)、著作権侵害を認めるどころか、誹謗であると開き直られるとは。さすがにこの事態は想像もしませんでしたが、ご指摘くださいと言われたのでは仕方がありませんね。 穏便に済ませるのは諦めましたので、はっきり容赦なく一致箇所(の一部)を指摘し、誹謗発言の取り消しと謝罪を要求します。以下、すごい長文になりますがご確認ください。また、『』内の文章はそれぞれ検証のため、明示した箇所より引用した文章とさせていただきます。
検証1-A『方角火消は正徳2年(1712)に制度化されたもので、江戸城を中心に5区に分けて担当の大名を決め、その方角に火災が発生すれば出動した。亨保7年(1722)には所々火消が制度化され、江戸城や芝増上寺、上野寛永寺、浅草御蔵、本所御米蔵など主要施設11か所を担当させた。 』 消防防災博物館のサイト、見て学ぶ-消防の歴史・現在・未来-1.江戸時代の消防[1]より引用。
検証1-B『方角火消は、江戸城を中心に5区に分けて担当の大名を決め、その方角に火災が発生すれば出動した。所々火消は亨保7年(1722年)に制度化され、江戸城や芝増上寺、上野寛永寺、浅草御蔵、本所御米蔵など、主要施設11ヶ所の消防を担当させた。』 ウィキペディアの火消初版[2]より引用。
検証2-A『この時、江戸末期には1万359人いた町火消も約4分の1の2,558人に減ってしまった。明治7年(1874)12月には、消防組の詰所である消防屯所を、東京市内25か所に設け、交替で勤務することとし、火災の多い11月から4月までは夜間も交替で当直する勤務体制をとることとした。これが交代制勤務制度の始まりである。また、この時に設けた消防屯所制度が、後の消防分遣所、消防分署制度へと発展していった。』 消防防災博物館のサイト、見て学ぶ-消防の歴史・現在・未来-2.明治期の消防[3]より引用。
検証2-B『この時、江戸末期には1万359人いた町火消も約四分の一の2,558人に減っていた。1874年(明治7年)12月には、消防組の詰所である消防屯所を、東京市内25ヶ所に設け、交替で勤務することとし、火災の多い11月から4月までは夜間も交替で当直する勤務体制をとることとした。これが交代制勤務制度の始まりである。また、この時に設けた消防屯所制度が、後の消防分遣所、消防分署制度へと発展していった。』 ウィキペディアの火消初版[4]より引用。
検証3 - 平凡社の『世界大百科事典』との酷似箇所については、ノート:火消にてR.Lucyさんがご指摘済みですので、もう充分でしょう。したがいまして、わたしからは繰り返しません。
さてさて、これほど酷似した文章の連続(しかもこれが全てではない)が、コピペじゃあないと主張されるとは、とてつもない驚きです。わたしにはまったく理解できないのですが、『かかる事実を時系列に沿って整理し、明確に表現した文章とすることを心がけたつもり』とのご発言は、もしかしたら何かのスラング、あるいは高度なジョークなのでしょうか?それとも方針を守ってまじめに執筆しているほかの利用者を愚弄し、挑発しているのでしょうか? 『あまりにも一致箇所が多すぎるというかぶっちゃけ複数のサイトから文章をそのまんま持ってきて組み合わせて作られた記事』というわたしの発言は、誹謗などではなく極めて適切な評価であると考えております。
さらに……『歴史的事実に関わる記述であって創作の余地がなく、他の史料によってもその内容は裏付けられています』との主張ですが、検証1で示した部分から所々火消について確認してみます。所々火消の担当箇所が11箇所であることは、たしかに各種資料から確認できます(思いっきり余談ですが、所々火消のはじまりは寛永16年(1639年)とされており、享保の改革によって11箇所に改編されたものであることはご存知でしょうか?以下に提示する書籍資料などをぜひご覧ください)。 しかし、その11箇所のうちからなぜ消防博物館のサイトとまったく同じ『江戸城、芝増上寺、上野寛永寺、浅草御蔵、本所御米蔵』だけ(しかも並び順も場所名も一言一句完璧に同じ)を抜き出して記述されているのかが不明です。
- 黒木喬『江戸の火事』同成社、1999年、P.36より引用しますと、所々火消の担当箇所は『大手方・桜田方・二丸・紅葉山・吹上・浅草米蔵・本所米蔵・猿江材木蔵・増上寺・寛永寺及び東照宮・聖堂』と記述されております。
- 山本純美『江戸の火事と火消』河出書房新社、1993年、P.42より引用しますと、所々火消の担当箇所は『江戸城を中心に、大手方、桜田方、二の丸、紅葉山、吹上、それに城外の浅草米蔵(蔵前)、本所米蔵、深川猿江材木蔵(江東区)、増上寺、東照宮寛永寺、聖堂の一一���所』と記述されております。
……言うまでもなく、執筆に当たって創作(でっちあげ)されては困るのですが、これがそういう問題ではなく……指摘したサイトからそのまんまコピペされたことを示す、何よりの証拠になっているということがお分かりいただけるでしょうか。
投稿履歴を見て、初版作成者は2006年4月からウィキペディアに参加しているベテラン利用者で、削除依頼の場においても何度か発言していることを確認しました。開いた口がふさがらないとは、まさにこのことです…… 自分の行動をタナに上げ、削除依頼提出者を非難する行為は極めて悪質であり、ウィキペディアの各種方針を確信犯的に無視した行動であると考えます。以上により、初版作成者に対し誹謗発言の取り消しと明確な謝罪を要求いたします(このコメントを読めば分かるでしょうが、かなり怒ってます)。
最後に、火消に関しては現在わたしも各種資料を参考に執筆中です(ウィキペディアに参加しようと思って8月上旬より執筆しており、未完成ではありますが現時点ですでにこの著作権侵害版より充実しているものと認識しております……というか執筆中だったためにこのひどい著作権侵害に気付いたんですが。怒ってるのはそれも理由だったり。おかげでアカウント取得日が早まりました)ので、削除後の再作成に関してはまったく心配ないことを述べておきます。では、あとは皆様の判断にお任せします。--Tondemonai 2009年9月14日 (月) 10:00 (UTC)[返信]
- (削除)『世界大百科事典』(2005年版)と見比べてみました。w:ja:火消の以下に挙げる部分(全文字数の約6割):
- 「#概要」の第二段落(終盤を除く)
- 「#大名火消」の第一段落(終盤を除く)
- 「#町火消」の第二段落(前半)・第四段落・第六段落(終盤を除く)・第七段落(終盤を除く)
- 「#火消人足」の第一・第二段落
- と、『世界大百科』の【火消し】の要所々々(合計すると全文字数の5~7割程度)が、ほぼ完全に一致することが確認できました。ごく一部(文字数でせいぜい数%)の語尾などが異なる程度です。残りの部分も[5]および[6]との類似性が顕著です。仮にウェブサイトのほうが看過できたとしても、『世界大百科』のほうは絶対に看過できません。ケースB-1としての削除に賛同します。--Five-toed-sloth 2009年9月14日 (月) 09:47 (UTC)[返信]
- (削除)初版執筆者さまのご回答を拝見いたしました。申し訳ないですが、削除票を投じさせて頂きます。新芽さまにおかれましては著作権法並びに著作権に関して厳格な意識を持っていただくことをお願い申し上げます。利用者:Law soma/自分の言葉で執筆してくださいでLaw somaさんが詳説されておりますので、一度目を通してみてください。その上で、ご自身の執筆・加筆された内容に於いて、著作権の侵害が疑われる履歴を洗い出して頂く事を希望します。誰にでも間違いや認識の誤りはあるものです。他者からの指摘を誹謗と捕らえず、ウィキペディアの質を高めるためにお互い協力していきましょう。--R.Lucy 2009年9月15日 (火) 15:14 (UTC)[返信]
- (対処)削除しました。--Kinori 2009年9月19日 (土) 01:37 (UTC)[返信]
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