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鮒子田寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鮒子田 寛
基本情報
フルネーム ふしだ ひろし
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市
生年月日 (1946-03-10) 1946年3月10日(78歳)
F1での経歴
活動時期 1975
過去の所属チーム '75 マキ
出走回数 2
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
最終戦 1975年オランダGP
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鮒子田 寛(ふしだ ひろし、1946年3月10日 - )は、日本の元レーシングドライバー日本人で初めてF1ル・マン24時間レースに参戦したドライバーとして名を残している。生沢徹や風戸裕などと並び、海外レース挑戦のパイオニア的ドライバーと評されている。現在は童夢顧問、日本自動車レース工業会顧問としてレース業界に関わっている。京都府京都市下京区仏光寺出身[1]同志社中学校・高等学校同志社大学法学部[2]

経歴

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大学時代

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同志社大学在学中の1964年秋ごろから、同志社中学校からの友人・林みのるや横山靖史らとともにホンダ・S600を駆って鈴鹿サーキットでスポーツ走行を開始する。この頃、鈴鹿サーキットで浮谷東次郎と出会う。

ワークスドライバー時代

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翌1965年にホンダの契約ドライバーに抜擢され、S600でレースに参加。1966年に20歳の若さでトヨタの一軍チームである自工ワークス『チームトヨタ』のドライバーになり、福沢幸雄らとともにトヨタ・2000GTにて72時間スピードトライアルに挑戦、計16の世界速度・国際速度記録を樹立。その後、1600GT、2000GTで耐久レースを中心に活躍。1968年以降は3リッター、5リッタートヨタ7日本グランプリや日本Can-Amなどのビッグレースに出場、優勝などの好成績を収める。

ワークス離脱後

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1970年にトヨタワークスを離脱、アメリカに渡りフォーミュラAレース(ヨーロッパにおけるF5000に相当)に参戦。翌1971年にもアメリカでTrans-Amシリーズに参戦するが、車両トラブルによる事故で重傷を負い帰国。

1972年から富士グランチャンピオンレース(富士GC)に本格的に参戦し、同年の年間チャンピオンになる。以後は富士GCなどの国内レースを中心に活動するが、海外レースにも参戦した。

F1とル・マン24時間レース

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1975年にはマキフォードをドライブし、F1イギリスGPオランダGPにエントリーしたが、ともに予選落ちでF1の決勝出場の記録は残していない。前年の1974年、高原敬武がF1のノンチャンピオンシップ戦に出場しているが、チャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのは鮒子田である。

また1973年には生沢徹とともに日本人で初めてル・マン24時間レースに参戦(マシンはシグマ・MC73)。ル・マンには1975年シグマ・MC75)、1981年(マツダ・RX-7)と計3回の出場を果たすが、いずれもマシントラブルで完走はない。 

引退

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1975年にはオーストラリア最大のレース、バサースト1000kmレースにて日本人初の総合5位クラス優勝(マツダ・サバンナRX-3)を飾った。1981年いっぱいで現役を引退。

ドライバー引退後

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引退後一時はレース界を離れ、家業の手伝いをしていたという。

1986年に、林みのるが率いる童夢に加入。1989年にはトムスに移籍し、レーシングチーム(トヨタ・チーム・トムス)のチーム監督を務める。その後1992年にイギリスに渡りトムスGBの社長として、トヨタのル・マン参戦の指揮を執る。

1998年にトムスGBがアウディに買収されレーシング・テクノロジー・ノーフォーク(RTN)となったのに伴い「残務処理のため」としてRTNジェネラルマネージャーに就任。しかしマネージャーとしての手腕を買われ、結局2003年までRTNの役員を務め、VWグループのベントレーのル・マンレース車両開発責任者としてベントレー・スピード8開発を統括、2003年ル・マン24時間レース制覇に貢献した。

2003年に帰国しINGINGF3チーム監督に就任。2004年にはINGINGが全日本F3選手権において、プライベートチームとして12年ぶりとなる、ドライバー・チームチャンピオンを獲得した。2007年1月には童夢に復帰し、同社取締役に就任しル・マン参戦等のレース活動を指揮。2009年童夢を退社、その後、ル・マン用エンジン開発等を行っているエイムの顧問に就任。2011年より、日本自動車レース工業会(JMIA)の顧問としてレース業界の発展・振興に務める。

2012年9月には林みのるの求めに応じる形で、童夢の2代目代表取締役社長に就任したが[3]、2015年7月に社長を退き副社長となった[4]。その後副社長も退き、2017年10月現在は同社顧問。

レース戦績

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FJ1300

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マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1973年 ESSO ノバ・01 TSU FSW
3
FSW TSU SUZ
2
SUZ
3
TSU
Ret
TSU SUZ TSU
1974年 マーチ・743 SUZ FSW SUZ
1
SUZ
Ret
SUZ
5
SUZ
Ret
1975年 マーチ・743 無限ホンダ SUZ SUZ SUZ FSW FSW NIS SUZ
2
SUZ

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1973年 日本の旗 シグマ・オートモーティブ 日本の旗 生沢徹
フランスの旗 パトリック・ダル・ボー
シグマ・MC73-マツダ S
2.5
79 DNF DNF
1975年 日本の旗 高橋晴邦 シグマ・MC75-トヨタ S
3.0
37 DNF DNF
1981年 日本の旗 マツダスピード 日本の旗 寺田陽次郎
イギリスの旗 ウィン・パーシー
マツダ・RX-7 IMSA
GTO
25 DNF DNF

F1

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所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 WDC ポイント
1975年 マキ F101C ARG BRA RSA ESP MON BEL SWE NED
DNS
FRA GBR
DNQ
GER AUT ITA USA NC
(50位)
0

(key)

全日本F2000選手権

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チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1974年 NISCAIT RACING ブラバム・BT40 コスワースBDA SUZ SUZ SUZ SUZ
6
NC 0
1975年 フシダ・レーサーズ マーチ・752 BMW M12/6 FSW
4
SUZ
Ret
FSW
3
SUZ
6
SUZ
DNS
7位 26
1976年 エンケイレーシング マーチ・752 BMW M12/6 FSW
6
SUZ
6
FSW
7
SUZ
9
SUZ
7
7位 20
1977年 フシダ・レーサーズ マーチ・752 BMW M12/7 SUZ SUZ NIS SUZ FSW
Ret
FSW SUZ SUZ NC 0

脚注

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  1. ^ 海外に挑んだ日本人レーサー鮒子田寛生まれる【今日は何の日?3月10日】 Cliccar 2022年3月10日
  2. ^ Facebook”. www.facebook.com. 2024年7月4日閲覧。
  3. ^ 社長交代のお知らせ - 童夢・2012年8月31日
  4. ^ 7月15日付 新体制のお知らせ - 童夢・2015年6月30日

外部リンク

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