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馬事公苑花の15期生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

馬事公苑花の15期生(ばじこうえんはなの15きせい)とは、馬事公苑において第15期長期騎手講習(1964年[1] - 1966年[注 1])を経て中央競馬騎手となった者の総称である。競馬の世界では単に「花の15期生」[2]というとこの者たちを指すこともある。

解説

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1964年に15期生として馬事公苑に入苑したのは16名[1][3]で、うち騎手となった者が14名[3]調教助手として競馬サークル内に残った者が1名[注 2]、競馬とは関係ない仕事に就いた者が1名[注 3]となっている。

15期生からは岡部幸雄柴田政人伊藤正徳の3人の東京優駿(日本ダービー)優勝騎手、不世出の天才と呼ばれた騎手顕彰者福永洋一など、有能な騎手を数多く輩出した。その一方で、競走中に発生した落馬事故が直接の原因となって石井正善佐藤政男の2名が殉職、福永洋一、柴田政人らが落馬による怪我がもとで騎手を引退しているなど、華やかさと同時にある種の悲劇性をも持ち併せている世代である。

岡部・柴田・福永の3人は中央競馬の全国リーディングジョッキー、騎手顕彰者になっているが、そのような例は騎手養成機関が競馬学校に移って以降を含め、ほかの年度にはみられない。また15期生は毎年同窓会を開く[2][注 4]など仲がよいが、彼らを取材した作家の木村幸治によればこれも「特殊例らしい」のだという[2]

馬事公苑花の15期生騎手一覧

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16名中、騎手となった14名は以下のとおり[1]。このうちデビューがもっとも早かったのは岡部、柴田、石井の3名である[6]。ただし、騎手引退後調教師に転業したのは柴田、伊藤、作田の3人のみである(2022年時点で全員が調教師を定年・引退している)。

花の15期生以外の黄金世代

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中央競馬の競馬学校第12期騎手課程の出身者は、その中に福永洋一の息子である福永祐一など、15期生に匹敵する話題性と活躍騎手がいることや、その祐一が三冠を達成して、結果的に15期生と同様に三冠騎手を出したなどの共通点もあることなどから、花の15期生になぞらえて「競馬学校花の12期生」と称されることがある。また1966年デビューの馬事公苑14期生騎手もこの15期生同様、多数の実力者を輩出しているという共通点がある。

また、トウメイメジロモンスニーに騎乗し活躍した清水英次は短期騎手課程(現在は廃止)の4期生で、15期生と共に1967年にデビューした。

脚注

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注釈

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  1. ^ 長期騎手講習の期間は2年であった。競馬学校設立による騎手講習課程変更により、講習期間が3年となった。
  2. ^ この人物は浅見国一厩舎の助手となり、1974年春の阪神障害ステークスを担当馬のケイキットで制したが、このとき騎乗したのは同期の日高三代喜であった。
  3. ^ 「16人のイカロスたち」には、この人物を同期会に誘っても、一度も参加したことはないとの伊藤正徳のコメントがある。1997年、雑誌『優駿』に掲載されたノンフィクションに登場し、自身の生い立ちや騎手講習課程に入るまでの経緯を語っている[4]
  4. ^ 2012年5月7日には、高知競馬場の重賞「福永洋一記念」に合わせて同窓会イベントが実施された[5]

出典

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  1. ^ a b c 優駿1997年3月号、pp.110-111
  2. ^ a b c 『優駿』1997年4月号、p.111
  3. ^ a b 『優駿』1997年4月号、p.110
  4. ^ 『優駿』1997年3月号、pp.111-112
  5. ^ 第3回福永洋一記念当日イベント「花の15期生同窓会in高知競馬場」出演者等について - 高知競馬公式サイト 2012年5月1日閲覧
  6. ^ 『優駿』1997年3月号、p.114

参考文献

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  • 「中央競馬年鑑・昭和42年 - 昭和46年版」(日本中央競馬会
  • 「中央競馬騎手名鑑・昭和59年版」(日本中央競馬会、1984年
  • 「別冊宝島86 競馬ぶっちぎり読本 16人のイカロスたち」(JICC出版局〈現・宝島社〉、1988年
  • 木村幸治「競作ノンフィクション・シリーズ『十六人の同期生たち』(上)」『優駿』、日本中央競馬会、1997年3月、109-114頁。 
  • 木村幸治「競作ノンフィクション・シリーズ『十六人の同期生たち』(下)」『優駿』、日本中央競馬会、1997年4月、109-114頁。