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須田寬

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すだ ひろし

須田 寬
2011年10月29日撮影(80歳時)
生誕 (1931-01-28) 1931年1月28日
日本の旗 京都府京都市中京区
死没 (2024-12-13) 2024年12月13日(93歳没)
出身校 京都大学法学部
職業 実業家
活動期間 1954年 - 2024年
団体 東海旅客鉄道
肩書き 東海旅客鉄道株式会社参与
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須田 寬(すだ ひろし、1931年1月28日 - 2024年12月13日)は、日本実業家東海旅客鉄道株式会社(JR東海)参与。同社初代代表取締役社長。第7代鉄道友の会会長。名はと表記されることが多いが、正表記は儿部の右側に点が入る)。

職責以上に鉄道営業制度に精通し、フルムーン夫婦グリーンパス自由席青春18きっぷホームライナーの生みの親と言われる。エル特急の誕生にも関与した[1]

来歴・人物

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生い立ち

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京都市中京区で洋画家の須田���太郎の長男として生まれる[2]。国太郎は写生旅行のため時刻表を毎月のように購入しており、読み方を教えられて幼稚園の頃から読み出した[2]。少年時代は体が弱く、時刻表を見ながら病床で遠方への旅行を想像していたという[2]。また、父が留学時代に集めたヨーロッパ各国の切手約1,000枚を幼稚園の頃にもらったのがきっかけで、切手収集が趣味となった[2]

小学生の時は冬になると気管支炎を起こして毎年3学期はほとんど通学できないほど病弱で、5年生だった1941年太平洋戦争が始まると教練の成績が悪いことなどから劣った少国民として教師に責められ、非国民とも呼ばれた[3]。さらに公立中学校の受験も教師に禁じられ、同志社中学校に進んだ時には強い劣等感を抱えていたという[3]旧制中学5年の時に肝臓を患って40度以上の高熱を出し、これが治った時に医師から励まされたのがきっかけで自分に自信を持てるようになった[3]京都大学に進むと学内で盛んだった学生運動に参加したが、活動内容に疑問を感じてスト破りをしたところ右翼と呼ばれて違和感を覚えたという[3]

国鉄入社

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1954年京都大学法学部を卒業して日本国有鉄道(国鉄)に入社。子供の頃に電気科学館路面電車地下鉄の解説を見て感激した体験や、勤労動員の際に空襲を受けても鉄道の運行システムが確保されていたことへの感心が背景にあったという[4]。1年間の研修を経て静岡鉄道管理局に2年間配属された。経歴的には見習いだけで終えるのが慣例だったが、沼津車掌区長の指示で実際に東海道本線御殿場線車掌を1か月半務めており[4]、さらに佐久間湖連絡船(飯田線災害代行)にも添乗した。一方、当時は洞爺丸事故紫雲丸事故をきっかけに国鉄への世間の風当たりが強くなっており、さらに1964年に赤字に転落するなど厳しい状態になっていくのを強く実感していたという[4]1968年には中部支社名古屋鉄道管理局に所属し、線区全体における近代化のモデル線区とされた高山本線の総合輸送改善計画についての取りまとめなどを担当した[5][6][7]

その後本社に戻り、1969年から旅客局で設備課長の職に就いた[8]。翌年に日本万国博覧会(大阪万博)があり、万博関係の駅整備を担当している[8]1972年に営業課長になるとディスカバー・ジャパンキャンペーンを引き継ぎ、専門家が決めた内容に細かい注文を付けないという前任の馬渡一真の方針を徹底させた[8]。営業課長時代には山陽新幹線岡山開業博多開業準備で料金改定を手がけた。この経験を受けて1974年に総務課長となり、国会政府、主婦会館などへの説明を担当した[8]。国鉄の財政難のため運賃・料金値上げは毎年続き、1976年11月には50%の値上げを行って乗客が離れ、財務基盤が崩れていくのが虚しかったという[8]。また1973年優先席導入の際には新たな座席モケットを発注する時間的な余裕がなく、色の違う生地を使うよう指示したため在庫のあった新幹線電車普通車用のシルバーグレーの座席モケットが使われ、これがシルバーシートの由来となった[4]。また、1971年には、プリペイドカードであるオレンジカードの開発プロジェクトのリーダー役も担当している[9]

その後、名古屋鉄道管理局長・本社旅客局長・常務理事を務める。1982年国鉄分割民営化の答申が出たが、合理化による再建を現場に呼びかけていた時期だったため、経営方針の変更でマル生運動のような混乱を懸念したという[10]1985年には常務理事として国鉄独自の全国1社を維持する民営化案策定に携わったものの激しい批判を受け、忸怩たる思いがあった[10]。一方で地域別分社という現在の形態は結果的に良かったと後に評価している[10]。また、旅客局長時代には上野駅に到着した特急列車が、夕方のラッシュ時に空席のまま東大宮操車場まで回送される編成が、途中の赤羽駅のホームを通過するときに乗客から非難されていたのをきっかけに「ホームライナー」のアイディアを着想し、提案をもとに1984年6月に「ホームライナー大宮」の運行を開始している[4]

JR発足後

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1987年に国鉄が分割民営化される際に、JR東海の初代代表取締役社長としてニュースで名前が挙げられたが、分割に反対していたため国鉄からの辞職を想定しており、就任要請に戸惑いを感じたという[10]

JR発足直後の1987年6月には、同年中日ドラゴンズの監督に星野仙一が就任し、同チームの強化策として落合博満が1対4の交換トレードで入団したことから、ナゴヤ球場への観客が大幅に増えたことを受け、同球場の近くを走る日本貨物鉄道(JR貨物)が線路を保有する名古屋港線第二種鉄道事業免許を取得、同線に臨時駅のナゴヤ球場正門前駅を設置してのJR東海による旅客列車の運行を決定し、翌7月1日に開業している[10]。民営化の効果で迅速な決定が可能になったことなどを喜び、開業時には初列車で同駅に行き一晩中乗客への対応に当たったという[10]

東海道新幹線の維持・管理費用を負担しながら減価償却費が計上できないことや、貸付期間終了後の譲渡が有償か無償か未定なため債務が確定できないことなどを理由に新幹線鉄道保有機構からの買取を求め、法整備によって1991年にJR東海の自己保有資産となった[10]

1992年に東海道新幹線で「のぞみ」の運行を開始した際には名古屋飛ばしが問題となって1か月間調整に忙殺されたが、対話によって地元との絆を深める収穫も得られたという[10]1995年にJR東海社長を退任し、会長となる。産業観光の概念を日本に紹介し、普及のため『新・産業観光論』などの著書を出版するとともに、全国産業観光推進協議会副会長、日本商工会議所観光小委員長、名古屋商工会議所文化委員長、観光立国推進戦略会議座長代理など多くの役職に就いた。その他、中部経済連合会特別顧問や日本大正村名誉顧問としても活動。2005年名古屋市熱田区名古屋国際会議場で開催された国際産業遺産保存委員会の国際会議の際には、同市を会場とするよう積極的に働きかけた。2020年には父の遺志を引き継ぐきょうと視覚文化振興財団の設立に携わる。

2024年12月13日、老衰により死去。93歳没[11]

年表

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著書

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特記事項

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脚注

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出典

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  1. ^ 「旅と鉄道」編集部『エル特急大図鑑 45年79列車の軌跡』天夢人〈旅鉄BOOKS〉、2022年8月、14頁。ISBN 978-4635824194 
  2. ^ a b c d 読売新聞、2000年7月17日付朝刊、p.10
  3. ^ a b c d 読売新聞、2000年7月24日付朝刊、p.9
  4. ^ a b c d e 読売新聞、2000年7月31日付朝刊、p.10
  5. ^ a b 須田寬「高山本線の輸送改善計画」『鉄道ピクトリアル』第207号、電気車研究会、1968年3月、60 - 62頁。 
  6. ^ a b 須田寬「近代化する高山本線」『鉄道ジャーナル』第2巻第3号、鉄道記録映画社、1968年3月、22 - 28頁。 
  7. ^ a b 須田寬「新特急"ひだ"誕生記」『鉄道ジャーナル』第15号、鉄道記録映画社、1968年11月、14 - 15頁。 
  8. ^ a b c d e 読売新聞、2000年8月7日付朝刊、p.10
  9. ^ 脇田健一『大ヒット商品 誕生の秘密』1987-5号、朝日新聞出版社、15-37頁。 
  10. ^ a b c d e f g h 読売新聞、2000年8月21日付朝刊、p.10
  11. ^ JR東海の初代社長 須田寛さん死去 93歳 老衰のため 東海道新幹線の安定輸送実現に尽力【訃報】 | 名古屋・愛知・岐阜・三重のニュース【CBC news】 | CBC web”. CBCニュース (2024年12月23日). 2024年12月23日閲覧。
  12. ^ 「RAILWAY TIPICS/JR東海の新社長に松本正之氏が就任」『鉄道ジャーナル』38巻9号、鉄道ジャーナル社、2004年9月1日、95頁。 
  13. ^ 平成24年春の叙勲 旭日大綬章受章者” (PDF). 内閣府. p. 1 (2012年4月). 2013年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月8日閲覧。
  14. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻286号(1990年8月号)p152
  15. ^ 原口隆行著 マイロネBOOKS16『鉄道学のススメ』p.95 - 96・113 2003年刊 JTB出版事業局 ISBN 4-533-04911-7

外部リンク

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先代
-
東海旅客鉄道社長
初代: 1987年 - 1995年
次代
葛西敬之
先代
三宅重光
東海旅客鉄道会長
第2代: 1995年 - 2004年
次代
葛西敬之