集帖
集帖(しゅうじょう)は、複数の書人の名跡を集めて石や木などに刻した法帖のこと。単帖(一つの作品を刻した法帖)や専帖(一人だけの筆跡を集めた法帖)に対していう。
概要
[編集]集帖の起源については種々の説があるが、南唐の李後主の『昇元帖』・『澄清堂帖』が集帖の祖といわれている。以後��数多くの集帖が編されているが、その大部分は行書・草書の書簡である。宋の『淳化閣帖』、明の『停雲館帖』・『余清斎帖』、清の『三希堂法帖』などが著名である。
集帖界の王者として君臨する『淳化閣帖』10巻には二王の書が半分の5巻を占めており、法帖の主流は王法であった。明代には多くの名跡が集刻され、顔真卿をはじめ、宋・元の書も刻されるようになった。そして、これらが清の『三希堂法帖』に集大成される。特に明から清にかけて法帖が全盛の時代であり、これを研究する帖学が興って法帖から学書する方法が一般化し、清代中期まで学書の主流になるなど、書道文化の発展に大いに寄与した。また、明の中期から経済的発展を遂げた江南で大収蔵家が出現し、家蔵の名品をもとに刻させた。これにともない法帖制作を専業とする優れた刻者なども現れた[1][2][3]。
集帖
[編集]以下に代表的な集帖を挙げる。魏・晋の筆跡が中心であるが、宋・元の真跡からの上石も多い[1][4]。
時代 | 刊行年 | 名称 | 巻数 | 作者 |
---|---|---|---|---|
南唐 | 不詳 | 昇元帖 | 不詳 | 李後主 |
不詳 | 澄清堂帖 | 不詳 | ||
宋 | 992年 | 淳化閣帖 | 10 | 太宗 |
1060年頃 | 絳帖(こうじょう) | 20 | 潘師旦 | |
1109年 | 大観帖 | 10 | 徽宗 | |
不詳 | 群玉堂帖(ぐんぎょくどうじょう) | 10 | 韓侂冑 | |
明 | 1416年 | 東書堂帖(とうしょどうじょう) | 10 | 朱有燉 |
1489年 | 宝賢堂帖(ほうけんどうじょう) | 12 | 朱奇源 | |
1522年 | 真賞斎帖 | 3 | 華夏 | |
1560年 | 停雲館帖 | 10と12 | 文徴明 | |
1585年 | 宝翰斎帖(ほうかんさいじょう) | 16 | 茅一相 | |
1592年? | 来禽館帖(らいきんかんじょう) | 不詳 | 邢侗 | |
1596年 | 余清斎帖 | 8 | 呉廷 | |
1602年 - 1610年 | 墨池堂選帖(ぼくちどうせんじょう) | 5 | 章藻 | |
1603年 | 戯鴻堂帖 | 16 | 董其昌 | |
1611年 | 鬱岡斎帖 | 10 | 王肯堂 | |
1612年 | 玉煙堂帖 | 24 | 陳瓛 | |
1619年頃 | 秀餐軒帖 | 4 | 陳息園 | |
清 | 1630年以後 | 渤海蔵真帖(ぼっかいぞうしんじょう) | 8 | 陳瓛 |
1641年以後 | 快雪堂法書(かいせつどうほうしょ) | 5 | 馮銓 | |
1672年 | 職思堂帖(しょくしどうじょう) | 8 | 江湄 | |
1675年 | 翰香館法書(かんこうかんほうしょ) | 10 | 劉鴻臚 | |
不詳 | 秋碧堂帖 | 8 | 梁清標 | |
不詳 | 聴雨楼帖 | 4 | 周於礼 | |
1747年 | 三希堂法帖 | 32 | 乾隆帝 | |
1754年 | 墨妙軒帖(ぼくみょうけんじょう) | 4 | ||
1790年頃 | 経訓堂帖(けいくんどうじょう) | 12 | 畢沅 | |
1830年 | 筠清館帖 | 6 | 呉栄光 | |
1892年 | 鄰蘇園帖 | 12 | 楊守敬 |
昇元帖
[編集]『昇元帖』(しょうげんじょう)は、集帖の祖といわれるものであるが、早くに亡失している。李後主が徐鋐に命じて刻させたものである[5]。
澄清堂帖
[編集]『澄清堂帖』(ちょうせいどうじょう)は、李後主が刻したものと伝えられるが、時代には種々の説がある。明の中ごろ世に現れた。王羲之の書が精刻されてあり、また『淳化閣帖』にない刻があるので尊ばれている。現在は、宋時代の拓本とされている残本数冊と、残本をもとにして『来禽館帖』・『戯鴻堂帖』・『玉煙堂帖』などで重刻されているものが伝わるのみである[1][6]。
淳化閣帖
[編集]『淳化閣帖』(じゅんかかくじょう、『閣帖』とも)10巻は、太宗の勅命によって淳化3年(992年)に完成した。翰林侍書の王著が勅命を奉じて、内府所蔵の書跡を編したものと伝承されている。王著は完成前に亡くなっているので編者への疑問もある。拓本としては極少数下賜されただけで、初版の原版が焼失したらしいので、多数の再版が後世まで制作された。有名な再版としては明時代に制作された顧氏本、潘氏本、粛府本、清時代の陝西本、乾隆帝による欽定重刻淳化閣帖などがある。
10巻の内容は次のとおりである。
- 歴代帝王の書(後漢の章帝以下21人)
- 歴代名臣の書(漢から晋までの19人)
- 歴代名臣の書(晋・宋・斉の31人)
- 歴代名臣の書(梁・陳・唐の17人)
- 諸家の書(古代から唐までの17家)
- 王羲之の書
- 王羲之の書
- 王羲之の書
- 王献之の書
- 王献之の書
この集帖の所収は、漢・魏・六朝・唐までの広範囲に及ぶ。ただし、真偽の疑わしいものも含まれているという[7][8]。
大観帖
[編集]『大観帖』(たいかんじょう)10巻は、徽宗が大観3年(1109年)、竜大淵・蔡京らに命じて『淳化閣帖』を訂正、削除、補刻させたもの。毎巻末に蔡京が標題として、「大観三年正月一日奉聖旨模勒上石」と書いている。『淳化閣帖』の板がひび割れし、また王著の記述に誤りが多かったため訂正し、偽跡の明白なものを削除した。さらに内府所蔵の書跡を出して補刻させた。しかし、靖康元年(1126年)に靖康の変があったため、拓本の伝わるものが極めて少ない[8][9]。
真賞斎帖
[編集]『真賞斎帖』(しんしょうさいじょう)3巻は、大収蔵家の華夏(か か、字は中甫)が嘉靖元年(1522年)に家蔵の『万歳通天進帖』などの優品を刻して刊行したもの。最初木に刻したが火災で焼失し、石に刻しなおした。文徴明が鉤摹し、章簡父が刻し、紙墨も精良で、明代第一の法帖との評価もある。上中下3巻の内容は次のとおりである[8][10][11][12]。
- 万歳通天進帖
『万歳通天進帖』(ばんざいつうてんしんじょう)とは、王氏一族の書簡を唐人が模したものである。王羲之の子孫の王方慶(おう ほうけい)が万歳通天2年(697年)、同家に伝わる王羲之および一門の書を則天武后に献上した。武后はその模本を作らせ真跡は返還している。しかし、真跡は失われ、模本の一部のみが遼寧省博物館に現存する。『真賞斎帖』・『停雲館帖』・『三希堂法帖』に刻入され、内容は、王羲之の『姨母帖』(いぼじょう)・『初月帖』(しょげつじょう)、王献之の『廿九日帖』(にじゅうくにちじょう)、王慈の『柏酒帖』(はくしゅじょう)などが著名である。[11][13][14][15]。
停雲館帖
[編集]『停雲館帖』(ていうんかんじょう)は、文徴明父子が嘉靖16年(1537年)に第1巻を作り、以後、名跡を得るごとに順次模刻し、20年間で完成した。10巻本と12巻本の2種があるが、12巻本は徴明没後、祝允明・文徴明の2巻が加えられたものである。その10巻の内容は次のとおりである。
第1巻の王羲之の小楷を除く他は、文徴明とその子(文彭と文嘉)が真跡から鉤模し、章簡父などの名手に刻させたという。模者・刻者ともに精良なため、明代を代表する名帖とされている[8][10][16]。
余清斎帖
[編集]『余清斎帖』(よせいさいじょう)8巻(正続2集、24巻とも)は、書画商人の呉廷(ご てい)が万暦24年(1596年)に作成した。呉廷自身が所蔵した王羲之から米芾までの諸帖を刻したもので、その8巻の内容は次のとおりである。
- 王羲之『十七帖』
- 王羲之『張金界奴本蘭亭序』・『楽毅論』・『黄庭経』など
- 王羲之『行穣帖』、王献之『鴨頭丸帖』・『洛神賦十三行』など
- 王珣『伯遠帖』、王献之『中秋帖』など
- 王羲之『胡母帖』、謝安『六十五字帖』など
- 孫過庭『草書千字文』、顔真卿『祭姪文稿』
- 蘇軾『赤壁賦』、米芾『千字文』
- 米芾『評紙帖』など
『十七帖』以外は多く真跡から刻したという。刻者は楊明時などによる名帖である[13][17][18]。
戯鴻堂帖
[編集]『戯鴻堂帖』(げこうどうじょう)16巻は、董其昌が万暦31年(1603年)に作成した。晋唐宋元の名品を集めたもの[17][19]。
鬱岡斎帖
[編集]『鬱岡斎帖』(うっこうさいじょう、『鬱岡斎墨妙』とも)10巻は、王肯堂(おう こうどう)が万暦39年(1611年)に作成した。鍾繇・王羲之から蘇軾・米芾まで、晋唐宋の名品を集めたのも。刻者は、管駟卿という名手で、明代の集帖中、第一の精拓といわれる[17][20]。
玉煙堂帖
[編集]『玉煙堂帖』(ぎょくえんどうじょう)24巻は、陳瓛(ちん けん)が万暦40年(1612年)に刻したもので、漢・魏より宋・元に至る名跡が集刻されている。刻は精巧さに欠くが他帖に見られない作品が含まれ貴重である[17][21]。
秀餐軒帖
[編集]『秀餐軒帖』(しゅうさんけんじょう)4巻は、陳息園(ちん そくえん)が万暦47年(1619年)頃に作成した。魏晋から南宋の張即之までを集めたもの[17]。
秋碧堂帖
[編集]『秋碧堂帖』(しゅうへきどうじょう、『秋碧堂法書』とも)8巻は、収蔵家の梁清標(りょう せいひょう、1620年 - 1691年)が自身の蔵する陸機『平復帖』から趙孟頫『洛神賦』までの真跡から模入した。刻手は尤永福である。内容の良さと精刻をもって著名であり、特に『平復帖』と『張金界奴本蘭亭序』があるので名高い。刊行年は不詳[22][23][24][25]。
聴雨楼帖
[編集]『聴雨楼帖』(ちょううろうじょう)4巻は、清の周於礼(しゅう おれい、1692年 - 1750年)が作成した。褚遂良・顔真卿、宋の四大家などの作品が刻入されている。刊行年は不詳[22]。
三希堂法帖
[編集]『三希堂法帖』(さんきどうほうじょう、正式には『三希堂石渠宝笈法帖』)32巻は、乾隆12年(1747年)に乾隆帝の勅命を奉じて梁詩正(りょう しせい、1697年 - 1763年)らが魏の鍾繇から明の董其昌に至る歴代名人の筆跡を刻した。その原石は495石に上る。精刻であり、紙墨ともによい。続帖として、『墨妙軒帖』がある。
三希堂とは紫禁城・内廷西側の養心殿内にある建物の号で、乾隆帝が命名した。その由来は、乾隆帝が王羲之の『快雪時晴帖』、王献之の『中秋帖』、王珣の『伯遠帖』の3帖を得て、これを希世の珍宝としてその室中に蔵したことによる[26][27][28][29][30]。
筠清館帖
[編集]『筠清館帖』(いんせいかんじょう)6巻は、清の呉栄光(ご えいこう、1773年 - 1843年)が道光10年(1830年)に、収蔵する晋梁唐宋元の名跡を刻したもの。呉栄光は収蔵に富み、碑帖3000本近く有していたという。他帖にない珍しいものもかなりあり、清代の刻帖としては有数のものである。6巻の内容は次のとおり[31][32]。
- 晋梁書
- 唐君臣書
- 宋君臣書
- 宋人書
- 元人書
- 元人書
鄰蘇園帖
[編集]『鄰蘇園帖』(りんそえんじょう)12巻は、楊守敬が光緒18年(1892年)から作成した。日本の『風信帖』なども刻入されている[33][34]。
脚注
[編集]- ^ a b c 藤原鶴来 p.155
- ^ 西川寧(書道辞典) p.115
- ^ 飯山三九郎 p.156
- ^ 鈴木洋保 pp..207-209
- ^ 西川寧(書道辞典) P.65
- ^ 西川寧(書道辞典) P.90
- ^ 西川寧(書道辞典) pp..63-64
- ^ a b c d 藤原鶴来 p.156
- ^ 西川寧(書道辞典) pp..82-83
- ^ a b 鈴木洋保 p.207
- ^ a b 比田井南谷 p.116
- ^ 杉村丁 巻末解説
- ^ a b 藤原鶴来 p.157
- ^ 西川寧(書道辞典) p.106
- ^ 鈴木洋保 p.46
- ^ 西川寧(書道辞典) p.92
- ^ a b c d e 鈴木洋保 p.208
- ^ 西川寧(書道辞典) p.127
- ^ 西川寧(書道辞典) p.41
- ^ 西川寧(書道辞典) p.13
- ^ 西川寧(書道辞典) p.36
- ^ a b 鈴木洋保 p.209
- ^ 西川寧(書道辞典) p.62
- ^ 比田井南谷 p.101
- ^ 藤原鶴来 pp..157-158
- ^ 藤原鶴来 p.158
- ^ 比田井南谷 p.113
- ^ 西川寧(書道辞典) p.55
- ^ 飯島春敬 p.306
- ^ 藤波曾川 pp..120-123
- ^ 飯島春敬 p.39
- ^ 中西慶爾 pp..23,305-306,1076-1077
- ^ 西川寧(書道辞典) p.133
- ^ 中西慶爾 p.364
出典・参考文献
[編集]- 藤原鶴来『和漢書道史』(二玄社、2005年8月)ISBN 4-544-01008-X
- 鈴木洋保・弓野隆之・菅野智明『中国書人名鑑』(二玄社、2007年10月)ISBN 978-4-544-01078-7
- 比田井南谷『中国書道史事典』(雄山閣、1996年2月)ISBN 4-639-00673-X
- 「中国書道史」(『書道藝術』別巻第3 中央公論社、中田勇次郎責任編集、普及版1981年)
- 西川寧編「書道辞典」(『書道講座』第8巻 二玄社、1969年7月)
- 木村卜堂『日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)
- 鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』(日本習字普及協会、1996年11月)ISBN 978-4-8195-0145-3
- 西林昭一・鶴田一雄「隋・唐」(『ヴィジュアル書芸術全集』第6巻 雄山閣、1993年8月)ISBN 4-639-01036-2
- 飯山三九郎「帖学派と碑学派の流れ」(「図説中国書道史」『墨スペシャル』第9号 芸術新聞社、1991年10月)
- 杉村丁「巻末解説」(「黄山谷 伏波神祠詩巻」『書跡名品叢刊 23』二玄社、1966年)
- 中西慶爾編『中国書道辞典』(木耳社、初版1981年)
- 飯島春敬編『書道辞典』(東京堂出版、初版1975年)
- 藤波曾川「宋・明・清代の名法帖」(「碑法帖・拓本入門」『墨スペシャル 第21号 1994年10月』芸術新聞社)