道久
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記録
[編集]出自・出家以前の名前など、経歴は一切不明である。「沙門」と称しているが、白村江の戦いにおける捕虜の1人とみられる。もしくは遣唐留学生の一人であったのかも知れない。
『日本書紀』巻第二十七の天智天皇10年11月(671年)の記述によると、道久は筑紫君薩野麻(つくし の きみ さちやま)・韓嶋勝裟婆(からしま の すぐり さば)・布師首磐(ぬのし の おびと いわ)らの指導的立場の人物であり、11月2日に唐船47隻で、唐の使者郭務悰、送使の沙宅孫登(さたくそんとう)ら2,000人とともに、比知嶋(巨済島南西に位置する比珍島と推定される)に停泊し、そこから船の使者として他の3人とともに、対馬国司(つしま の くにのみこともち)に来朝の意を表した。対馬国司は、その旨を筑紫大宰府(つくし の おほきみこともちのつかさ)に報告した。比知嶋に停泊したという内容の記述があるのみである。しかし、みな死んだのか拒否されたのか日本に上陸した記録はない[1][2][3][4][5][6][3][3][7][8][3][3][3]。
脚注
[編集]- ^ 『日本書紀』天智天皇十年十一月十日条
- ^ 『日本書紀』天智天皇十年十一月十日条
- ^ a b c d e f 近藤浩一『白村江直後における熊津都督府の対倭外交』『人文×社会』編集委員会〈人文×社会 1 (4)〉、2021年12月15日、30-33頁。
- ^ 開府儀同三司新羅王金法敏・熊津都尉扶余隆,盟干百済之熊津城。初百済自扶余璋与高麗連和,屢侵新羅之地,新羅遣使入朝求救,相望於路。及蘇定方既平百済軍回,余衆又叛。鎮守使劉仁願・劉仁軌等,経略数年,漸平之。詔扶余隆,及令与新羅和好。至是,刑白馬而盟。先祀神祇及川谷之神,而後歃血。其盟文曰,…。劉仁軌之辞也。歃訖,埋書弊弊於壇下之吉地,蔵其盟書於新羅之廟。於是,仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四国使,浮海西還,以赴太山之下。 — 冊府元亀、外臣部二十六、盟誓・高宗麟徳二年年八月条
- ^ 同盟于熊津城。劉仁軌以新羅・百済・耽羅・倭国使者浮海西還,会祠泰山。 — 資治通鑑、麟徳二年八月条
- ^ 麟徳二年,封泰山。仁軌,領新羅及百済・耽羅・倭四国酋長,赴会。 — 旧唐書、劉仁軌伝
- ^ 十一月甲午朔癸卯,対馬国司,遣使於筑紫大宰府言,月生二日,沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人,従唐来曰,唐国使人郭務悰等六百人,送使沙宅孫登等一千四百人,総合二千人,乗船册七隻,倶泊於比知島,相謂之曰,今吾輩人船数衆,忽然到彼,恐彼防人,驚駭射戦,乃遣道文等,予稍披陳来朝之。 — 日本書紀、天智十年十一月甲午朔癸卯条
- ^ ���軍丁筑紫国上陽咩郡人大伴部博麻曰,於天豊財重日足姫天皇七年,救百済之役,汝為唐軍見虜。洎天命開別天皇三年,土師連富杼・氷連老・筑紫君薩野馬・弓削連元宝児,四人,思欲奏聞唐人所計,縁無衣糧,憂不能達。 — 日本書紀、持統四年十月乙丑条
参考文献
[編集]- 『日本書紀 五』岩波書店〈岩波文庫〉、1995年。
- 宇治谷孟『日本書紀 全現代語訳 下』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。
- 遠山美都男『白村江―古代東アジア大戦の謎』講談社〈講談社現代新書〉、1997年。