近衛忠嗣
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時代 | 南北朝時代(北朝)・室町時代 |
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生誕 | 永徳3年(1383年) |
死没 | 享徳3年6月29日(1454年7月24日) |
改名 | 良嗣、忠嗣 |
別名 | 後普賢寺(号) |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 | 後小松天皇→称光天皇 |
氏族 | 近衞家 |
父母 | 父:近衛兼嗣、母:家女房 |
兄弟 | 忠嗣、玄昭、良兼 |
子 | 房嗣 |
近衞 忠嗣(このえ ただつぐ)は、日本の南北朝時代(北朝)から室町時代にかけての公卿。初名は良嗣(忠嗣への改名は関白任官直前の応永15年(1408年)3月)。
生平
[編集]南北朝時代末の公家、父は近衛兼嗣、母は家女房。康応1年(元中6年、1389年)元服ののち、良嗣と称し、応永15年(1408年)忠嗣と改める。明徳1年(元中7年、1390年)従三位となり、左大臣を経て、応永15年関白・氏長者。同29年閏10月10日出家するが(逝去は誤記)、その原因は月の初めに最愛の妻室が他界したことにあった。
忠嗣は悲しみのあまり取り乱し、切腹に及ぶ。周囲は驚いて刀を奪い取り、切腹を制止するが、その後すぐ忠嗣は髻を切った。伏見宮貞成親王、三宝院満済はそれぞれの日記『看聞日記』『満済准后日記』にこの事件を記し、すこぶる狂気か、摂関家では前代未聞の例であると結んでいる。
官職歴
[編集]- 康応元年12月30日(1390年1月16日) - 明徳元年12月30日(1391年2月4日) 右近衛少将
- 明徳元年12月30日(1391年2月4日) - 応永元年12月25日(1395年1月16日) 右近衛中将
- 明徳2年3月26日(1391年4月30日) - 明徳3年8月22日(1392年9月9日) 播磨権守
- 明徳3年8月22日(1392年9月9日) - 応永元年12月25日(1395年1月16日) 権中納言
- 応永元年12月25日(1395年1月16日) - 応永6年2月22日(1399年3月9日) 権大納言
- 応永4年3月29日(1397年4月26日) - 応永6年2月22日(1399年3月9日) 右近衛大将
- 応永6年2月22日(1399年3月9日) - 応永9年8月22日(1402年9月19日) 内大臣
- 応永6年2月22日(1399年3月9日) - 応永6年4月(1399年-月-日) 左近衛大将
- 応永9年8月22日(1402年9月19日) - 応永16年正月19日(1409年2月4日) 左大臣
- 応永15年4月20日(1408年5月15日) - 応永16年2月21日(1409年3月7日) 関白(後小松天皇)
位階歴
[編集]- 康応元年12月20日(1390年1月6日) 正五位下
- 康応2年2月1日(1390年2月16日) 従四位下
- 明徳元年4月1日(1390年5月15日) 正四位下
- 明徳元年12月30日(1391年2月4日) 従三位
- 明徳3年正月6日(1392年1月30日) 正三位
- 応永3年正月5日(1396年2月14日) 従二位
- 応永6年正月5日(1399年2月11日) 正二位
- 応永10年正月6日(1403年1月28日) 従一位
系譜
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任』
公職 | ||
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先代 一条経嗣 |
関白 1408 - 1409 |
次代 二条満基 |
先代 三条実冬 |
左大臣 1402 - 1409 |
次代 二条満基 |
先代 九条教嗣 |
内大臣 1399 - 1402 |
次代 今出川公行 |
軍職 | ||
先代 九条教嗣 |
左近衛大将 1399 |
次代 二条満基 |
先代 九条教嗣 |
右近衛大将 1397 - 1399 |
次代 二条満基 |