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谷村友一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
谷村 友一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府
(生まれはアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク
生年月日 (1927-08-22) 1927年8月22日
没年月日 (2022-07-31) 2022年7月31日(94歳没)
選手情報
ポジション 二塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2024年
得票率 78.6%(14票中11票)
選出方法 特別表彰

谷村 友一(たにむら ともいち、1927年8月22日 - 2022年7月31日)は、日本プロ野球審判員。所属はセントラル・リーグ京都府出身(出生地はアメリカニューヨーク)。

来歴・人物

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1927年、父親の駐在先であるニューヨークで生まれる。5歳で帰国した[1]

旧制同志社中学(現:同志社高校)、同志社大学から極東商事(現:三菱商事入社。選手時代は二塁手で、甲子園出場は無いが、大学では4年生時に主将を務め、1950年秋のリーグ優勝に貢献し、最高殊勲選手賞を受賞している[1]。 また、1952年に社会人野球チーム・京都クラブで第23回都市対抗野球大会への出場経験がある。

大学卒業後、24歳から旧関西六大学野球高校野球審判員を務め、1955年から甲子園大会も担当。高校野球審判員として春夏合わせて合計8回甲子園出場を果たす。三菱商事に勤務しながらの実績であった。

1959年セ・リーグ審判部入局。1986年までプロ野球審判員を務め、通算3026試合出場。オールスターゲーム6回出場、日本シリーズ11回出場。1987年から1994年に退職するまでは専任指導員。転じた翌年にセ・リーグが袖番号を採用しているが、指導員であるため当時一番大きい番号である32をつけた[注 1]。セ・リーグの指導員が袖番号を所有するのはこの先例があるためである[注 2]

引退までアウトサイドプロテクターを使用し続けたが、立ちながら構える。

その後はプロ野球マスターズリーグで審判員を務めた。

2022年7月31日、新型コロナウイルス感染により兵庫県川西市の病院で死去[2]。94歳没。

2024年1月18日、公益財団法人野球殿堂博物館が選出する野球殿堂の特別表彰委員会において、選出され野球殿堂入りとなった[1][3][4][5][6]

谷村審判員が立ち会った有名な試合

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脚注

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注釈

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  1. ^ ちなみに2024年現在32原信一朗2005年採用)がつけている。
  2. ^ パ・リーグでは審判員が指導員に転じる際に袖番号を返上する慣習があった。

出典

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関連項目

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外部リンク

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