藤原公長
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藤原 公長(ふじわら の きんなが、元暦元年(1184年) - 没年不詳)は、鎌倉時代の公家。藤原北家末茂流、中納言・藤原実教の三男。官位は正三位・民部卿。
経歴
[編集]後白河院政期後期の文治2年(1186年)従五位下に叙爵し、建久2年(1191年)従五位上に叙せられる。のち、丹波守・越中守を経て、正治元年(1199年)正五位下・右兵衛佐に叙任された。
建仁2年(1202年)母の喪から復任後直ちに従四位下に叙せられると、元久2年(1205年)従四位上、建永2年(1207年)には正四位下まで昇進するが、その後は右兵衛佐のみを帯びて、叙位任官の機会を得られなかった。
建保7年(1219年)従三位に叙せられて公卿に列す。嘉禄2年(1226年)治部卿を経て、翌嘉禄3年(1227年)民部卿に遷るが、非参議のまま民部卿を兼ねたのは、平安時代初期の延暦15年(796年)に民部卿から参議を経ずに従三位に昇った和気清麻呂以来400年以上ぶりであったという[1]。嘉禎2年(1236年)まで民部卿を務め、この間の寛喜元年(1229年)正三位に至る。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 文治2年(1186年) 11月17日:叙爵(大宮未給)
- 建久2年(1191年) 6月4日:従五位上
- 建久5年(1194年) 正月30日:丹波守
- 建久9年(1198年) 正月30日:越中守(実教給丹波替)
- 正治元年(1199年) 正月5日:正五位下(皇后宮御給)。12月9日:右兵衛佐(越中守)
- 建仁2年(1202年) 正月21日:復任(母)、従四位下(依未復任去5日不叙、兵衛佐労)
- 元久2年(1205年) 正月5日:従四位上(承明門院当年御給)
- 建永2年(1207年) 正月5日:正四位下(宜秋門院御給)
- 建保7年(1219年) 正月5日:従三位、元右兵衛佐
- 嘉禄2年(1226年) 7月24日:治部卿
- 嘉禄3年(1227年) 4月3日:服解(父)。10月21日:民部卿(非参議民部卿例)P660
- 寛喜元年(1229年) 10月5日:正三位(臨時)
- 嘉禎2年(1236年) 11月22日:止卿
- 仁治元年(1240年) 10月20日:出家(前民部卿正三位)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]- ^ 『公卿補任』
参考文献
[編集]- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年