石川総乗
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛文3年7月14日(1663年8月16日) |
死没 | 享保5年5月24日(1720年6月29日) |
別名 | 宗八郎、當俊・総明 |
戒名 | 霊智院殿圓山一通 |
墓所 | 京都寺町本禅寺(現京都府京都市上京区北之辺町) |
官位 | 従五位下、備中守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
氏族 | 石川氏 |
父母 | 父:石川義當、母:三枝守俊女 |
兄弟 |
総乗、上野當時、正幸(大久保忠尚養子) 女(石川総昌室)、阿喜井(吉川広紀室) 総因、日違上人、當休† |
妻 |
正室:祐子(京極高豊姪、京極高房女) 後室:遠藤常友女 |
子 |
庄三郎、阿充(佐治好耀室) 義武(弟上野當時の子)、総因(弟) |
石川 総乗(いしかわ ふさのり)は、江戸時代前期の旗本。貞當系石川家(大島石川家)3代。
寛文3年(1663年)石川義當の嫡男として誕生した。延宝2年(1674年)7月18日将軍徳川綱吉に拝謁し、元禄12年(1699年)8月御小姓並となり、同年12月5日父の致仕に伴い家督を継いだ。この後正式に小姓に列し、元禄15年(1702-3年)12月3日従五位下・備中守に叙任された。以後、小姓組番頭から御書院番頭となり、享保4年(1719年)7月伏見奉行となったが、翌年5月24日死去した。幕命により跡目は下條信隆の養子となっていた弟の信澄が継ぎ、諱を総因と改めた。
なお『寛政重修諸家譜』 において正室は遠藤常友女、後室を京極高和養女と記しているが、本項においては『石川家譜難波録』記載に従った。『石川家譜難波録』には京極高豊姪の没年は元禄2年(1689年)で、遠藤常友女の没年は元禄8年(1695年)とある。
参考文献
[編集]- 『新訂 寛政重修諸家譜 第3』続群書類従完成会、1981年
- 『石川家譜難波録』