牛海綿状脳症
牛海綿状脳症(うしかいめんじょうのうしょう、英語: Bovine Spongiform Encephalopathy, 略語: BSE)は、牛の脳の中に空洞ができ、スポンジ(海綿)状になる感染症(プリオン病)である。「ぎゅうかいめんじょうのうしょう」とも読む。一般的には狂牛病(きょうぎゅうびょう, Mad Cow Disease)として知られ、1986年にイギリスで初めて発見された[1]。
羊のスクレイピーや、鹿の慢性消耗病 (CWD)、他、ヒトのクロイツフェルト・ヤコブ病 (Creutzfeldt-Jakob disease, CJD) などを総称して伝達性(伝染性)海綿状脳症(Transmissible Spongiform Encephalopathy, TSE)と表記される場合もある。
症状
[編集]この病気を発症した牛は、群れから離れたり痙攣を起こすなど異常な行動を取るようになり、その後、音や接触に対して過敏な反応をするようになる。病状がさらに進むと運動機能に関連する部位も冒されて立てなくなるなどの症状を示す。
原因
[編集]イギリスで発生したのは、飼料として与えた汚染肉骨粉が感染源と考えられている。なお、日本での発生原因は完全には解明されていないが、肉骨粉と同時に牛用代用乳がその原因として疑われている[2]。
ウイルスなど核酸を有した病原体による病気ではなく、プリオンと呼ばれるタンパク質のみで構成された物質が原因だとする見解が主流であるが、有力な異論・異説も少数ながらあり、プリオン原因説は完全な定説とはなっていない。健康体の牛などの体内には正常プリオン蛋白が発現しているが、BSEの原因となるプリオンは、正常プリオン蛋白とは立体構造が異なる異常プリオン蛋白から構成されている。
異常プリオン蛋白は、二次構造や細胞内局在において、正常プリオン蛋白とはかなり違った性質を示す。たとえば、正常なプリオンにはαヘリックス構造が多く含まれるのに対して、異常プリオンではβシート構造が多くなっている。この異常プリオン蛋白により構成されたプリオンが人工飼料などを介して、ウシやヒトの体内に入ると、徐々に正常プリオン蛋白が異常プリオン蛋白に変えられていってしまう。この仕組みについては未解明な部分も多い。
2008年9月11日、アメリカ合衆国農務省(英語略:USDA)動物病センター(英語:National Animal Disease Center/UADC)[3]で研究を行った、カンザス州立大学のユルゲン・リヒト(Jurgen Richt)教授は、BSEの病原体である異常プリオンは、外部から感染しなくとも牛の体内での遺伝子の異変によって作られ、BSEを発症する例につながると発表した。この発表は2006年アラバマ州でBSEを発症した約10歳の雌牛の遺伝子の解析から、異常プリオンを作る異変が初めて見つかったことによる。ヒトでも同様の異変が知られ、クロイツフェルト・ヤコブ病を起こす[4]。
対処
[編集]本疾病に感染したウシは治療法が存在しない。日本で本疾病について検査により陽性が確認された場合、家畜伝染病予防法に基づいた殺処分命令が出され、当該患畜は速やかに殺処分される。殺処分にした後、焼却処分が行われる。
また、飼料を介した感染が疑われる疾病であるため、当該患畜と同一の飼料にて育成された可能性があるものについては、本疾病について陽性である可能性が考えられるため、本疾病についての調査が実施される。
人への伝達
[編集]国 | BSE事例 | 変異型 クロイツフェルト ・ヤコブ病 |
---|---|---|
オーストリア | 5 | 0 |
ベルギー | [5] | 1330 |
カナダ | [6] | 17[7] | 2.
チェコ | [8] | 280 |
デンマーク | [9] | 140 |
フォークランド諸島 | 1 | 0 |
フィンランド | 1 | 0 |
フランス[10] | 900 | [7] | 25
ドイツ | 312 | 0 |
ギリシャ | [11] | 10 |
香港 | 2 | 0 |
アイルランド | 1,353 | [7] | 4
イスラエル | [12] | 1[13] | 0
イタリア | [14] | 138[7] | 2
日本 | 26 | [7] | 1
リヒテンシュタイン | 2 | 0 |
ルクセンブルク | 2 | 1 |
オランダ | [15] | 85[7] | 3
オマーン | 2 | 0 |
ポーランド | 21 | 0 |
ポルトガル | 875 | [7] | 2
サウジアラビア | 0 | [7] | 1
スロバキア | 15 | 0 |
スロベニア | 7 | 0 |
スペイン | 412 | [7] | 5
スウェーデン | 1 | 0 |
スイス | 453 | 0 |
タイ | [16] | 02 |
イギリス | 183,841 | 176[7] |
アメリカ合衆国 | [6] | 4[7] | 3
合計 | 188,579 | 280 |
狂牛病と変異型クロイツフェルト・ヤコブ病は、非常によく似ていることから、同一病原体によるものと現在のところ結論されている[1]。イギリスにおいて1993年5月に15歳の少女の発症例が報告され、クロイツフェルト・ヤコブ病は中高年や感染された人から作られた医薬品が原因で発症する病気という従来の常識を覆して、医学界に衝撃を与えた。
変異型クロイツフェルト・ヤコブ病による死者は1995年を皮切りに、死因がこの病気であると確認された人数は117名。推定を含めると死者は169名に達している(生存者は4名[2]、2010年7月5日現在)。
当初ヒトには、経口感染しないとされた。しかし、狂牛病に感染した獣肉で作られたキャットフードを食べたネコが死に、解剖したところ海綿状脳症であったことから、食物から感染した疑いが非常に高くなり、牛同士以外でも牛肉を通じての感染が疑われた。
1990年代前半までに、イギリスを中心に発生していた変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(異型クロイツフェルト・ヤコブ病とも呼ばれる)が、その後の調査で、牛海綿状脳症が食物を通して感染したことが疫学的に高い確率であることが証明された。
政治的には、1996年3月20日、イギリス保健省大臣がイギリス下院議会において「クロイツフェルト・ヤコブ病患者10人の発病の原因が、狂牛病に感染した牛肉であることを否定できない」と狂牛病は、ヒトに経口感染する見解を明らかにしたのが初めである。
ただ、どの様な経緯で感染し発病するのかは、現在でも病理学的には諸説あり、各国で研究が進められている。原因が明らかでなく、プリオンは熱に極めて強いため、広く規制する措置がとられている。牛の検査や特定の国からの輸入停止、飼料や加工過程についての規制と、感染した牛からの肉や牛乳など直接(肉など)、間接(原料として生産された加工品)に人間にわたらないように、世界各国で配慮がなされているが、畜産業界などの政治的圧力の高い国では、政治的な問題となり、必ずしも解明に積極的ではない。また、当事国内では解決されたとみなされても、国際的には汚染地域として輸出の制限を続けられる場合もある。
変異型クロイツフェルト・ヤコブ病は英語の "variant Creutzfeldt-Jakob disease" で vCJD と略記される。
特定危険部位
[編集]特定危険部位は国によって違いがある。日本においては脊髄、背根神経節を含む脊柱、舌と頬肉を除く頭部(具体的には眼、脳、扁桃など)、回腸遠位部(小腸のうち盲腸との接続部から2メートルの所まで)が特定危険部位に指定されている。これらの部位を摂取するとvCJDを発症する危険が高くなる。
各方面への影響
[編集]日本では、2001年9月10日に千葉県内で飼育されていた牛がBSE発症疑いであることが農林水産省から発表される。後にBSE発症が確定となり、日本においても狂牛病が発生した地域となった。
また、アメリカ合衆国においても2003年にBSE牛が発生した事に伴い、農林水産省は2005年末まで米国産牛肉の輸入を禁止した。
化粧品
[編集]化粧品については、日本ではメーカーによる自主規制と回収が促されている。
牛を原料としたゼラチン
[編集]牛を原料としたゼラチンについては、世界保健機関の専門委員会では安全であると認定されている。
外食産業
[編集]BSE発生による食肉業界への農林水産省の救済策を悪用した牛肉偽装事件が、2002年以降相次いで発覚した。また、吉野家が米国産牛肉の輸入禁止により、牛丼を2004年から2008年まで長期間に渡り販売中止にする影響が出た。
牛肉を大量に使用している焼肉店や、焼肉文化に支えられている焼肉のたれといった焼肉関連産業も、大きなダメージを被った。
献血
[編集]日本赤十字社は、1980年から1996年の間に、1日泊以上イギリスに滞在した事のある者からの献血を、輸血による感染の防止から禁止した(ヒースロー空港で再々乗り継ぎの有無は、条件になるかどうか不明)。制限は2005年6月1日から2010年1月26日までに行われる献血に適用された。2010年1月27日以後の献血については、献血禁止条件を「英国に1日(1泊)以上滞在歴」から「英国滞在歴通算31日以上」に緩和された[17]。
脚注
[編集]- ^ 『牛丼のひみつ』72頁。
- ^ 牛海綿状脳症(BSE)の感染源及び感染経路の調査について・厚生労働省BSE疫学検討チーム
- ^ 米国農務省国立動物病センター、(英文)
- ^ 未感染でもBSE発祥 遺伝子異変で異常プリオン、米農務省確認 読売新聞 2008年9月12日13S34面
- ^ “BSE in Belgium” (2006年11月12日). 2008年11月9日閲覧。
- ^ a b “BSE Cases in North America, by Year and Country of Death, 1993-2008”. Centers for Disease Control and Prevention, Department of Health and Human Services (2008年). 2008年11月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “Variant Creutzfeld-Jakob Disease, Current Data (October 2009)”. The National Creutzfeldt-Jakob Disease Surveillance Unit (NCJDSU), en:University of Edinburgh (2009年10月). 2000年10月14日閲覧。
- ^ “BSE Positive Findings in the Czech Republic” (pdf). State Veterinary Administration, Ministry of Agriculture, Czech Republic. p. 2 (2007年). 2008年11月9日閲覧。
- ^ “The Current Status of BSE and scrapie in Denmark” (pdf). Danish Veterinary and Food Administration (2007年5月). 2008年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年11月9日閲覧。
- ^ France reports more than 900 BSE cases
- ^ “BSE in Greece”. 2008年11月9日閲覧。
- ^ “Israel: BSE testing according to source of cattle and age groups, 2002-2008”. 2008年3月5日閲覧。
- ^ “vCJD Cases Worldwide 2011”. 2011年7月2日閲覧。
- ^ “BSE cases - Italy 2001 - 2006” (2006年). 2008年11月10日閲覧。
- ^ “dad=portal&_schema=PORTAL&p_document_id=110016&p_node_id=1161644&p_mode=BROWSE Overzicht BSE-gevallen” (Dutch). Ministerie van Landbouw, Natuur en Voedselkwaliteit (2008年). 2008年11月9日閲覧。
- ^ The number of BSE cases is not available for Thailand.
- ^ “1980年から1996年の間に英国に1日以上滞在された方からの献血見合わせ措置に関するQ&A”. 厚生労働省. 2020年3月18日閲覧。
参考文献
[編集]- 天笠啓祐著『「狂牛病」何が問題か! 恐るべき食肉汚染の実態』(かもがわブックレット)、かもがわ出版、2002年2月
- 天笠啓祐、安田節子著『肉はこう食べよう、畜産はこう変えよう BSEを乗り越える道』コモンズ、2002年3月
- 池田正行著『牛肉を安心して食べるための狂牛病Q&A』主婦の友社、2001年12月
- 池田正行著『食のリスクを問いなおす BSEパニックの真実』(ちくま新書)、筑摩書房、2002年8月
- マンフレート・ヴァイセンバッハー(Manfred Weissenbacher)著、横瀬涼訳『狂牛病は警告する ヨーロッパの体験が教えるもの』筑摩書房、2002年2月
- 金子清俊著『プリオン病の謎に挑む』(岩波科学ライブラリー93)、岩波書店、2003年5月
- 唐木英明著『牛肉安全宣言――BSE問題は終わった』PHP研究所、2010年3月
- サイバーX編集部編『狂牛病 プリオン病因説は間違っている!』(CyberX bio)、工学社、2001年12月
- エリック・シュローサー(Eric Schlosser)著、楡井浩一訳『ファストフードと狂牛病』草思社、2002年10月
- 滝川康治著『狂牛病を追う 「酪農王国」北海道から』七つ森書館、2002年7月
- 中村靖彦著『狂牛病 人類への警鐘』(岩波新書)、岩波書店、2001年11月
- 日経レストラン編集部編『狂牛病〈BSE〉対策マニュアル』日経BP社、2002年1月
- 平沢正夫著『牛乳・狂牛病問題と「雪印事件」 安心して飲める牛乳とは』(講談社プラスアルファ新書)、講談社、2002年5月
- 福岡伸一著『もう牛を食べても安心か』(文春新書)、文藝春秋、2004年12月
- 船瀬俊介著『早く肉をやめないか? 狂牛病と台所革命』三五館、2001年9月
- 船瀬俊介著『この食品だったらお金を出したい! 狂牛病と台所革命〈2〉』2001年12月
- 矢吹寿秀、NHK「狂牛病」取材班著、『「狂牛病」どう立ち向かうか』(NHKスペシャルセレクション)、日本放送出版協会、2001年12月
- 山内一也著『狂牛病と人間』(岩波ブックレット)、岩波書店、2002年1月
- 山内一也著『プリオン病の謎に迫る』(NHKブックス)、日本放送出版協会、2002年4月
- 山内一也、小野寺節著『プリオン病 BSE(牛海綿状脳症)のなぞ』(第2版)、近代出版(東京)、2002年8月
- フイリップ・ヤム(Philip Yam)著、長野敬、後藤貞夫訳『狂牛病とプリオン―BSE感染の恐怖』青土社、2006年3月
- リチャード・W・レーシー(Richard W. Lacey)著、渕脇耕一訳『狂牛病 イギリスにおける歴史』
- リチャード・ローズ(Richard Rhodes)著、桃井健司、網屋慎哉訳『死の病原体プリオン』草思社、1998年7月
- バイオテクノロジー・ジ��パン著『狂牛病のすべて ファクト・ブック』日経BP社、1996年6月
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 小澤義博 牛海綿状脳症(BSE)の現状と問題点(1-4) J. Vet. Med. Sci. 63(4), 63(10), 64(2), 65(1)(日本獣医学会内)
- 国立精神・神経センター神経研究所疾病研究第七部(高次脳機能障害を呈する疾患としての「プリオン病」に関する基礎研究・治療法開発を目的とした研究、及び機能性疾患に関する研究)のページ
- 国立研究開発法人農研機構(農業・食品産業技術総合研究機構)牛海綿状脳症(BSE)のページ(リンク切れ)
- 「牛の個体識別情報検索サービス」 農水省の独立行政法人 家畜改良センター
- 厚生労働省「牛海綿状脳症(BSE)関係」ホームページ
- 英国の食品安全管理局 Food Standards Agency(FSA)の牛海綿状脳症対策関連の情報と最新ニュース(英語)
- OIEとBSE関連の国際基準について(PDFファイル)
- EFSAによるGBR評価
- 牛海綿状脳症について