橋本繁蔵
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橋本 繁蔵 はしもと しげぞう | |
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生年月日 | 1907年7月15日 |
出生地 | 愛知県名古屋市 |
没年月日 | 1983年9月11日(76歳没) |
出身校 | 名古屋市立那古野高等小学校(現名古屋市立那古野小学校) |
所属政党 |
(日本自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 |
従四位 勲二等瑞宝章 |
選挙区 | 愛知県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1971年7月4日 - 1977年7月3日 |
第41・46・49・50代愛知県議会議長 | |
在任期間 |
1954年5月 - 1955年4月 1959年5月 - 1963年4月 1965年5月 - 1967年4月 1967年5月 - 1971年4月 |
選挙区 | 名古屋市中村区選挙区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 |
1947年4月30日 - 1951年4月29日 1955年4月30日 - 1971年 |
橋本 繁蔵(はしもと しげぞう、1907年(明治40年)7月15日[1][2] - 1983年(昭和58年)9月11日[1][2][3])は、昭和期の政治家。参議院議員(1期)、愛知県議会議長。親分肌で「ハシシゲさん」の愛称で親しまれた[1][2]。
経歴
[編集]愛知県名古屋市で生まれる[1][2]。名古屋市立那古野高等小学校(現名古屋市立那古野小学校)を卒業した[1][3]。
名古屋市会議員[3]、自由党愛知県支部庶務部長[3]などを務めた。
1947年(昭和22年)、愛知県議会議員選挙に名古屋市中村区選挙区から日本自由党公認で立候補し初当選した[4]。1951年(昭和26年)の県議選は自由党公認で立候補し次点で落選[5]。1955年(昭和30年)の県議選で返り咲く[6]。1967年(昭和42年)、5期目の当選を果たす[2][3]。また、同議長を務めた[1][2][3]。
自由党愛知県連幹事長、愛知県人事委員長、全国都道府県議会議長会会長、自由民主党愛知県連会長[7]、愛知県生活協同組合連合会会長、私立幼稚園PTA協議会会長、中小企業対策連絡協議会会長愛知県漁港協会会長、同港湾協会会長などを務めた[1][2][3]。
1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙に愛知県地方区から自由民主党公認で出馬して当選し[1][2][3][8]、参議院議員を1期[注 1]務め政界を引退した[1][2][3]。この間、第2次田中角栄第2次改造内閣・三木内閣の環境政務次官などを務めた[1][3]。1977年(昭和52年)秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章[9][10]。
1983年9月11日死去、76歳。死没日をもって従四位に叙される[11]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『新訂 政治家人名事典』481頁では2期。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『新訂 政治家人名事典』481頁。
- ^ a b c d e f g h i 『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』486頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』385頁。
- ^ 『愛知県議会史 第九巻』愛知県議会、1981年3月16日、341頁。
- ^ 『愛知県議会史 第九巻』愛知県議会、1981年3月16日、361頁。
- ^ 『愛知県議会史 第十巻』愛知県議会、1983年3月15日、413頁。
- ^ 『中日新聞』1990年3月8日付朝刊、県内版、16面、「党分裂回避にホッ 自民県連会長の“円満禅譲” 駆け引き、思惑交錯 派閥対立や一宮市長選 江崎体制にきしみ」。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』472頁。
- ^ 「橋本 繁蔵」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』 。コトバンクより2023年2月7日閲覧。
- ^ 『官報』第15246号7頁 昭和52年11月5日号
- ^ 『官報』第16988号12-13頁 昭和58年9月17日号
参考文献
[編集]- 日外アソシエーツ編『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』日外アソシエーツ、1988年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。