折田平内
折田 平内 おりた へいない | |
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1880年頃撮影 | |
生年月日 | 1847年1月23日 |
出生地 | 薩摩国鹿児島城下山下町 |
没年月日 | 1905年5月6日(58歳没) |
前職 |
薩摩藩士 開拓使官僚 内務官僚 |
称号 |
正四位 勲二等瑞宝章 錦鶏間祗候 |
選挙区 | 勅選議員 |
在任期間 | 1894年1月23日 - 1905年5月7日[1] |
官選第9代 滋賀県知事 | |
在任期間 | 1897年4月7日 - 1899年4月7日 |
官選第3代 広島県知事 | |
在任期間 | 1896年4月23日 - 1897年4月7日 |
官選第7代 栃木県知事 | |
在任期間 | 1889年12月24日 - 1894年1月20日 |
第6代 警視総監 | |
在任期間 | 1888年10月24日 - 1889年10月25日 |
その他の職歴 | |
官選第2代 福島県知事 (1886年7月19日 - 1888年10月19日) | |
第2代 山形県令 (1882年7月13日 - 1886年7月) |
折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年12月7日)[2] - 1905年(明治38年)5月6日[3])は、明治時代の日本の政治家。薩摩藩士。開拓大書記官、内務書記官、警視総監を務め、山形県令、福島・栃木・広島・滋賀県知事など多くの官選知事を歴任。後に貴族院勅選議員となる。
生涯
[編集]薩摩国鹿児島城下山下町(現在の鹿児島県鹿児島市山下町)に生まれる。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。1872年12月に開拓使八等出仕となる。1872年8月に開拓大主典、1873年10月に七等出仕となり、1875年8月8日に開拓幹事。1877年1月に開拓権少書記官となり、翌1878年11月に権大書記官となる。
開拓使廃止後、1882年に内務大書記官となり、同年7月から1883年7月まで山形県令、その後福島県知事に任ぜられる。1888年10月に三島通庸の後の警視総監となる。三島と同じ薩摩人であったからとも、関係の深い黒田清隆が首相に就いたためともいわれる(黒田が退陣すると折田も警視総監を辞職した)。1889年12月24日から1894年1月20日まで栃木県知事、1896年4月23日から1897年4月7日まで広島県知事、1897年4月7日から1899年4月7日まで滋賀県知事を歴任する。1900年5月8日、錦鶏間祗候に任じられた[4]。
その他、1894年1月23日に貴族院議員に勅選され[5]、在任中の1905年5月6日に死去した。享年60。
栄典・受章・受賞
[編集]- 位階
- 勲章等
人物
[編集]『地方長官人物評』を著した大岡力の人物評は、
- 「氏為人温厚絶て圭角なし・・・県令として、知事として、警視総監として、赫然一方面の顕職に当たれりと雖も、其の間音もなく、香もなく、寂々寥々も成績の見るべきなし、唯だ尨然たる身体肥満せる顔色の中に、厚顔無為の趣と存するのみ」である。
福島県知事時代、中学校令の公布により県に中学は1校しか認められなくなった。このため会津地域に中学を再建するよう尽力し、設立趣意書を起草。明治天皇からの下賜金を含め、寄付金5万円弱が集まり、旧会津藩校・日新館の流れをくむ私立会津中学が設立された。
脚注
[編集]参考文献
[編集]この記述には、パブリックドメインの本書の翻案を含む。
- 福島県立会津高等学校70周年記念誌