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折田平内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
折田 平内
おりた へいない
1880年頃撮影
生年月日 1847年1月23日
出生地 薩摩国鹿児島城山下町
没年月日 (1905-05-06) 1905年5月6日(58歳没)
前職 薩摩藩士
開拓使官僚
内務官僚
称号 正四位
勲二等瑞宝章
錦鶏間祗候

選挙区 勅選議員
在任期間 1894年1月23日 - 1905年5月7日[1]

滋賀県の旗 官選第9代 滋賀県知事
在任期間 1897年4月7日 - 1899年4月7日

広島県の旗 官選第3代 広島県知事
在任期間 1896年4月23日 - 1897年4月7日

栃木県の旗 官選第7代 栃木県知事
在任期間 1889年12月24日 - 1894年1月20日

第6代 警視総監
在任期間 1888年10月24日 - 1889年10月25日

その他の職歴
福島県の旗 官選第2代 福島県知事
1886年7月19日 - 1888年10月19日
山形県の旗 第2代 山形県令
1882年7月13日 - 1886年7月)
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折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日弘化3年12月7日[2] - 1905年明治38年)5月6日[3])は、明治時代の日本の政治家薩摩藩士開拓大書記官、内務書記官、警視総監を務め、山形県令福島栃木広島滋賀県知事など多くの官選知事を歴任。後に貴族院勅選議員となる。

生涯

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薩摩国鹿児島城山下町(現在の鹿児島県鹿児島市山下町)に生まれる。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。1872年12月開拓使八等出仕となる。1872年8月に開拓大主典、1873年10月に七等出仕となり、1875年8月8日に開拓幹事。1877年1月に開拓権少書記官となり、翌1878年11月に権大書記官となる。

開拓使廃止後、1882年内務大書記官となり、同年7月から1883年7月まで山形県令、その後福島県知事に任ぜられる。1888年10月三島通庸の後の警視総監となる。三島と同じ薩摩人であったからとも、関係の深い黒田清隆が首相に就いたためともいわれる(黒田が退陣すると折田も警視総監を辞職した)。1889年12月24日から1894年1月20日まで栃木県知事、1896年4月23日から1897年4月7日まで広島県知事、1897年4月7日から1899年4月7日まで滋賀県知事を歴任する。1900年5月8日、錦鶏間祗候に任じられた[4]

その他、1894年1月23日に貴族院議員に勅選され[5]、在任中の1905年5月6日に死去した。享年60。

栄典・受章・受賞

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位階
勲章等

人物

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『地方長官人物評』を著した大岡力の人物評は、

「氏為人温厚絶て圭角なし・・・県令として、知事として、警視総監として、赫然一方面の顕職に当たれりと雖も、其の間音もなく、香もなく、寂々寥々も成績の見るべきなし、唯だ尨然たる身体肥満せる顔色の中に、厚顔無為の趣と存するのみ」である。

福島県知事時代、中学校令の公布により県に中学は1校しか認められなくなった。このため会津地域に中学を再建するよう尽力し、設立趣意書を起草。明治天皇からの下賜金を含め、寄付金5万円弱が集まり、旧会津藩校・日新館の流れをくむ私立会津中学が設立された。

脚注

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  1. ^ 『官報』第6556号、明治38年5月11日
  2. ^ 参考文献『日本人名大辞典』463頁。
  3. ^ 折田平内”. コトバンク. 2020年8月23日閲覧。
  4. ^ 『官報』第5053号、明治33年5月9日。
  5. ^ 『官報』第3169号、明治27年1月24日。
  6. ^ 『官報』第5141号「叙任及辞令」1900年8月21日。
  7. ^ 『官報』第1791号「叙任及辞令」1889年6月20日。
  8. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  9. ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。

参考文献

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  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 東京経済雑誌社『日本人名辞書』1921年。
  • 大岡力『地方長官人物評 』1892年。

この記述には、パブリックドメインの本書の翻案を含む。

  • 福島県立会津高等学校70周年記念誌