彭家声
彭家声 | |
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ဖုန်ကြားရှင် | |
シャン州第一特区主席 | |
任期 1995年12月20日 – 2009年8月25日 | |
前任者 | 楊茂良 |
後任者 | 白所成 |
任期 1989年3月11日 – 1993年2月27日 | |
前任者 | (創設) |
後任者 | 楊茂良 |
個人情報 | |
生誕 | 1931年2月5日 イギリス領ビルマ シャン連合州コーカン |
死没 | 2022年2月16日 (91歳没) ミャンマー シャン州モンラー |
親戚 | 彭徳仁 (息子) |
兵役経験 | |
渾名 | 果敢王 |
所属国 | コーカン人民革命軍 (1965–1969) ビルマ共産党 (1969–1989) ミャンマー民族民主同盟軍 (1989–2022) |
軍歴 | 1965年 | –2009年
最終階級 | ミャンマー民族民主同盟軍司令官 |
戦闘 | ミャンマー内戦 |
彭 家声 (ほう かせい、拼音: Péng Jiāshēng; ビルマ語: ဖုန်ကြားရှင်、1931年2月5日 - 2022年2月16日)は、ミャンマーの軍閥リーダー。
ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)の創設者・司令官であり、シャン州第一特区主席を勤めた。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]1931年、コーカンの红石头河(ビルマ語: ဟောင်ဆော်ထူးဟော်)付近で、7人きょうだいの長子として誕生する。彭一族は、コーカン土司と姻戚関係にあった[1]。1949年、土司の楊振材が経営する学校で軍事について学び、1965年、彼がミャンマー軍にコーカン支配者の地位を逐われるまで、彼のもとでコーカン自衛隊の幹部として働いた。彭家声は、コーカン人民革命軍を組織し、少数の若い兵士とともに軍部に対するゲリラ戦をはじめた[1]。1969年、コーカンの支配者となった[1]。彭家声は、ビルマ共産党の統治下で20年にわたりコーカンを支配した[2]。
MNDAA司令官として
[編集]1989年、共産党は分裂した[2]。彼はミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)を創設し[1]、モンコーを制圧した[3]。共産党から分裂したMNDAAは国軍と停戦協定を結び、コーカンを「シャン州第一特区」として支配し続ける許可を受けた[1][4]。
2009年8月、ミャンマー軍は彭家声の自邸および[5][6]、MNDAAの麻薬工場とみなされる場所に強制捜査をおこなった[4][7]。MNDAAの副司令官であった白所成は軍部への忠誠を誓った[8][9][10]。2009年コーカン軍事衝突を経て、彭家声はMNDAA指導者の地位を逐われ[10]、逮捕状が発行されたのち[9]、逃亡したと伝えられている[1]。
逃亡後
[編集]2014年12月、彭家声は『環球時報』のインタビューに答えた。このインタビューにおいて、彼はミャンマー軍からコーカンを奪還することを誓約した。2015年2月には彼の軍とミャンマー軍の間で軍事衝突が発生し、当初はミャンマー軍側に多くの被害が出た[11]。2022年2月16日、モンラーで死去した。享年91歳[12][13]。
人物
[編集]彭家声は、ミャンマーにおける麻薬取引において重要な役割を果たしていた。バーティル・リントナーによれば、彼は1970年代、コーカンにはじめてヘロイン精製工場を建設し、少なくとも20年にわたって密輸に携わりつづけた[14]。1990年、彼はコーカンにおけるケシ栽培を合法化した[1]。しかし、彼自身は麻薬取引に反対していると主張しており、1999年にジャーナリストおよび麻薬専門家とおこなった対談では、「地域からアヘンを排除する」べく尽力しており、10年間にわたり、アヘン交易を終わらせようとしてきたと語っている[14]。コーカン政府は2003年に、同地域から「麻薬が排除された(drug-free)」と宣言した[1][5][15]。しかし、中央政府および専門家は、コーカンは引き続き麻薬取引に関わっていると疑っている[5][15]。
かつてミャンマーの麻薬取引における中心的人物であった羅星漢の経営する、アジア・ワールド社および、彼の息子である羅秉忠と深い関係にあったとされ、彼らを通じてシンガポールに投資していたと考えられている[16]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h “果敢乱局当前 传“果敢王”已逃离” (中国語). 南国都市报 (Southern Metropolitan) (29 August 2009). August 23, 2011時点のオリジナルよりアーカイブ。29 August 2009閲覧。
- ^ a b Lintner, Bertil (28 June 1990). “A fix in the making”. Far Eastern Economic Review. 29 August 2009閲覧。 [リンク切れ]
- ^ Tucker, Shelby (2001). Burma: The curse of independence. Pluto Press. p. 176. ISBN 978-0-7453-1541-6
- ^ a b “Tense situation in N. Myanmar's Shan state prevails”. Xinhua (28 August 2009). August 30, 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。27 August 2009閲覧。
- ^ a b c Lawi Weng (10 August 2009). “Kokang Thwart Burma Army Drug Raid”. The Irrawaddy. 3 September 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。28 August 2009閲覧。
- ^ “Situation in Myanmar's Kokang region remains”. China Daily (29 August 2009). November 13, 2023時点のオリジナルよりアーカイブ。30 August 2009閲覧。
- ^ Agence France-Presse (27 August 2009). “More fighting feared as thousands flee Burma”. Bangkok Post. 28 August 2009閲覧。
- ^ Wai Moe (28 August 2009). “Junta Renews 'Divide-and-Rule' Tactic in Shan State”. The Irrawaddy. 30 August 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。29 August 2009閲覧。
- ^ a b “Kokang capital falls: "Not shoot first" policy under fire”. Shan Herald (26 August 2009). 2 September 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。29 August 2009閲覧。
- ^ a b “Myanmar military moves to crush Kokang Chinese”. Earth Times (27 August 2009). 28 August 2009閲覧。
- ^ “Ethnic allies join Kokang fight | The Myanmar Times” (13 February 2015). November 28, 2021時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月8日閲覧。
- ^ “Peng Jiasheng, Myanmar’s ‘King of Kokang,’ Remembered With Lavish Funeral”. The Diplomat (31 March 2022). 2024年8月8日閲覧。
- ^ 缅甸“果敢王”彭家声去世 终年94岁 Archived November 13, 2023, at the Wayback Machine.
- ^ a b Peck, Grant (5 March 1999). “Foreign nations question support for Myanmar's opium battle”. Associated Press
- ^ a b “Junta's ploy: push Kokang to shoot first”. Shan Herald (14 August 2009). 1 September 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。29 August 2009閲覧。
- ^ “Kokang rebels produce drugs in Asia World Company dam sites”. Kachin News Group (Burma News International). (14 July 2010) 8 March 2012閲覧。