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小林伸二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小林 伸二
名前
カタカナ コバヤシ シンジ
ラテン文字 KOBAYASHI Shinji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1960-08-24) 1960年8月24日(64歳)
出身地 長崎県南高来郡国見町(現雲仙市[1]
身長 174cm
体重 78kg
選手情報
ポジション FW
ユース
1976-1978 日本の旗 島原商業高校
1979-1982 日本の旗 大阪商業大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1990 日本の旗 マツダSC 40 (4)
通算 40 (4)
監督歴
1991-1992 日本の旗 マツダSC(Asistant)
1993-1996 日本の旗 サンフレッチェ広島ユース
1999 日本の旗 サンフレッチェ広島(Asistant)
2000 日本の旗 アビスパ福岡サテライト
2001 日本の旗 大分トリニータサテライト
2001-2003 日本の旗 大分トリニータ
2004-2006 日本の旗 セレッソ大阪
2008-2011 日本の旗 モンテディオ山形
2012-2015 日本の旗 徳島ヴォルティス
2016-2017 日本の旗 清水エスパルス
2019-2021 日本の旗 ギラヴァンツ北九州
2023 日本の旗 ギラヴァンツ北九州
2024- 日本の旗 栃木SC
1. 国内リーグ戦に限る。2023年11月22日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

小林 伸二(こばやし しんじ、1960年8月24日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手FW)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。

来歴

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中学3年の時に島原商業高小嶺忠敏監督が自宅に直々に勧誘に来たことがきっかけで同校に入学し、雨や台風でも休みなしで練習、練習後に12kmのコースを走らされることもあった。1年次の1976年からFWとして頭角を現し、2年次の1977年にはインターハイを優勝。ちなみに長崎北高出身の松田浩は同県出身で同い年である。元々はサッカーは高校までで終え、卒業後は両親が国見町(現・雲仙市)で営む家業の菓子店を継ぐための修行に入るつもりであったが、小嶺の影響により指導者を志し、1979年大阪商業大学へ入学。上田亮三郎監督から指導を受けた、在学中に教員免許を取得したものの、サッカー部での活躍が実業団関係者の目に留まる。

大学卒業後の1983年マツダSC東洋工業へ入団。同期に信藤克義木村孝洋今川正浩上原洋史らがおり、中村重和は高校・大学・マツダの先輩にあたる。マツダを選んだのは今西和男からの勧誘が大きかったといい、入社して配属された部署も今西が課長であった[2]。現役時代はウイングとして活躍。1987年にはハンス・オフトコーチの指導を受け、高橋真一郎、松田、猿沢茂ら日本人と、ディド・ハーフナーら外国人と共に、第67回天皇杯準優勝に貢献。1990年に選手兼コーチを打診されるが、同年限りで現役を引退。

引退後はマツダSC/広島でトップチームコーチ(1991年 - 1992年, 1999年)、ユース初代監督(1993年 - 1996年)、スカウト(1997年 - 1998年)を務めた。広島ユース監督時代の1995年にはJユースカップ優勝に導き、広島ユースに初の栄冠をもたらした。2000年J1アビスパ福岡2001年にはJ2大分トリニータのサテライト監督に就任するが、6月にトップチーム監督の石崎信弘が成績不振で解任された後を受けて大分トリニータの監督に就任。この年は石崎体制時代の出遅れを取り戻せず6位に終わるが、同シーズンオフ、当時のクラブ社長に、フィジカルコーチ招聘や補強ポイントなどを綴った「勝てるチームへの組織づくり」と題したレポートを提出、シーズン前のキャンプでは3部練習を敢行するなどチーム改革を進めた結果、2002年は開幕6連勝とスタートダッシュに成功、終盤でも連勝を重ね、最終的に28勝10分6敗と圧倒的な強さでJ2優勝を果たしJ1に昇格する。J1・1年目の2003年は、守備は通用したが深刻な得点力不足に陥り、結局年間14位でかろうじて残留を決めた。シーズン終了後に監督を退任。

2004年7月、この年のJ1・1stステージで最下位であったセレッソ大阪監督に就任。2ndステージも苦戦したが、最後の2試合で連勝して年間成績で15位に滑り込み、J1残留を果たす。2005年は開幕3連敗で早々と最下位に沈んだが、ここから粘りを見せて第19節から最終節まではJ1最多記録となる16試合連続負け無し(10勝6分)の快進撃を演じた。第33節で首位に立ち、続く最終第34節にホームでのFC東京戦で勝利すればJ1優勝決定という所までこぎつけた。優勝は逃したが、最終順位は5位で、前年にJ2降格の危機に瀕していたチームを優勝目前まで引き上げた。この経緯を経て迎えた2006年は周囲より優勝を期待されたが、開幕から不振が続き4月18日付で監督を解任された。

同年10月9日付で、九州サッカーリーグ所属のV・ファーレン長崎の強化部長兼アシスタントコーチに就任。レンタル移籍選手を入団させてJFLへの昇格を目指すも、地域リーグ決勝大会の決勝ラウンドで敗退した。

その後の12月12日、アビスパ福岡チーム統括グループ長に複数年契約で就任。2007年シーズンはJ1再昇格に向けチーム再建に取り組んでいたが、自身の就任後に監督に就任したピエール・リトバルスキーと強化方針をめぐり対立。チームはJ2第13節で一度は首位に立ったが、上位チームとの対戦成績の悪さが影響し、その後1度も首位に立つことなく終盤は中位に低迷。4戦を残し昇格の可能性が消えたこともあり、11月13日に来期もリトバルスキーの続投を考える社長から詰め腹を切らされる形で更迭された[3]

2008年からはモンテディオ山形監督に就任して現場復帰し、最終的にJ1昇格のための足がかりである「5位以内」というシーズン前の目標を飛び越えてJ2リーグ2位の成績でシーズンを終え、就任初年度にチーム悲願となる初のJ1昇格を達成。2009年、山形のJ1初年度となるシーズン前の補強はC大阪時代に小林の下でプレーをした古橋達弥を獲得したが、その他の補強は日本人選手2名と外国人選手の獲得に留まり、昇格に貢献した豊田陽平京都サンガF.C.へ移籍した。一時は降格圏にまで順位を下げたが、小林はシーズン後半戦の残留を賭けた下位チームとの連戦を前に相手チームを徹底的に分析し、相手の弱点を突く練習を行った。その結果、山形は下位相手の連戦に勝ち越し、最終的に15位で終了。山形をJ1に残留させる事に成功した。2010年も引き続き山形を指揮。前年同様、J2降格候補の最有力と呼ばれたが、鹿島から田代有三増田誓志をレンタルで獲得し、シーズン途中にはC大阪時代の教え子である前田和哉を獲得。既存戦力と巧く順応させ、チーム一丸となってリーグ戦に臨んだ結果、前年を上回る13位でシーズンを終了。山形を再びJ1残留に導いた。2010年12月10日、山形と契約を更新し、4年目の指揮を執ることが決定した[4]。Jリーグ参入後、山形で4年目の指揮を執るのは小林が初めてあったが[5]2011年は開幕から成績不振の末最下位に終わり、J2降格が決定。契約満了に伴い、来季の契約を更新しないことが発表され退任となった[6]

2012年は当初、現場を離れ休養する意思を示していたが、徳島ヴォルティスからの熱烈なオファーを受け、それに応える形で監督に就任[7][8]。1年目は15位に終わったものの、2年目となる2013年、リーグ戦4位でJ1昇格プレーオフに進出。これを勝ち抜き、チームとして初の、監督としては3度目となるJ1昇格を果たした[9]。2013年12月9日、徳島ヴォルティスとの契約が更新され、2014年も指揮をとることが決まった[10][11]。3年目の2014年は成績不振が続き最下位で1年で降格した。4年目の2015年ではシーズン前半戦は下位に沈んだが、シーズン後半戦は持ち直し順位を順調に上げた。しかし前半の不振が仇となり、第40節で札幌戦に敗北してしまった事でJ1昇格プレーオフ進出を逃がし、同シーズン限りで徳島監督を退任した[12]

2016年より、この年にJ2へ降格した清水エスパルスの監督に就任[1]。前半戦こそ苦戦したが、エース・大前元紀が怪我から復帰してからは得点王の鄭大世とのコンビで攻撃を牽引、シーズン終盤に松本山雅FCと共に首位を独走していた北海道コンサドーレ札幌に追い縋る。最終節では松本を逆転し2位に浮上、1年でのJ1復帰という至上命題を完遂した(2016年J2第41節・最終節を参照)。2017年12月、契約解除により清水の監督を退任した[13]

2019年より、J3リーグギラヴァンツ北九州の監督に就任[14]。同時にスポーツダイレクターも兼任し、「全権監督」として強化部門にも関わる事となった[15]。前年J3最下位であったことから小林曰く「戦力的にもそろわずゼロからのスタート」で、クラブも3年計画でのJ2復帰を目標に掲げていたが、開幕から4連勝で首位に立つなど序盤から安定した戦いを見せた他、シーズン途中で加入した北川柊斗髙橋大悟が共にチーム2位タイとなる7得点をマークするなど、強化部門においても手腕を発揮。就任1年目でJ3優勝・J2復帰に導いた[16]。また前年最下位のチームが翌年に優勝したのは、J1、J2含めJリーグ史上初の快挙となった[17]。以上のことが評価され、同年のJリーグアウォーズにおいてJ3優勝監督賞を受賞した[18]。監督2年目、北九州として4シーズンぶりのJ2参戦となった2020年には、第7節からクラブ新記録の9連勝を達成、シーズン前半戦終了時点でクラブ史上初の首位に立ち、後半戦は早速したものの最終的にクラブ史上最高タイとなるJ2リーグ5位に躍進したが、同年オフにチーム得点王のディサロ燦シルヴァーノをはじめ、同シーズン出場時間上位11人中8人もの主力選手の大量流出もあり、2021年は一転して苦戦を強いられ、最終的に21位でJリーグ史上初の2度目のJ3降格となる。12月6日、同シーズンをもって監督としては退任、兼任していたスポーツダイレクター専任という形でクラブに留まることとなった[19][20]

2023年9月5日、成績不振で辞任した田坂和昭監督[21]の後任としてスポーツダイレクター職兼任で再び監督に就任した[22]。11月22日、同シーズンをもって監督としては退任、兼任していたスポーツダイレクターも契約解除となった。

2024年5月15日、J2リーグに所属している栃木SCの監督に就任した[23]

特徴

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いくつものチームを昇格させたことから、昇格請負人と呼ばれることがある[16]

大分在籍時から守備力のあるチームを作ることが多い。特に2003年2ndステージは失点がリーグ最少の16だった(ただし15試合で得点はわずか7。もちろんリーグ最少で、このステージは最下位であった)。C大阪でも、初めてシーズン当初から指揮を執った2005年になって本領を発揮し、森島寛晃西澤明訓を中心にもともとある攻撃力とうまくかみ合って、特に後半戦での快進撃を生んだ。山形でもまずは守備の再生に着手し、コーチの長島裕明と二人三脚でチームをJ1昇格・J1残留という結果に導いている[24](後に徳島でも長島と共闘している)。

清水でクラブ幹部から「勝負師というよりは教育者」と評されたように、若手選手の育成に定評がある一方で、外国人選手の起用方法などに難があるとされる[25]

エピソード

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  • 山口朝日放送の情報番組「土曜の目覚めはどき生てれび」に出演した際、レノファ山口FCの戦術分析を行ったところ、分析内容が(サッカーに詳しくない出演者や視聴者にとって)専門的すぎて、スタジオが静まりかえってしまったという。次の出演前には妻を前にリハーサルを行って番組に臨んだものの、妻からは「何を言ってるのか、さっぱり分からない」とダメ出しをされてしまったという[26]

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1983 マツダ JSL1部
1984 JSL2部
1985
1986-87 12 JSL1部 3 0
1987-88 12 21 3
1988-89 12 JSL2部 3 0
1989-90 12 1 0
1990-91 12 11 1 2 0
1991-92 18 JSL1部 0 0 0 0
通算 日本 JSL1部 40 4
日本 JSL2部
総通算

指導歴

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監督成績

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年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 ナビスコ杯 天皇杯
2001 J2 大分 6位 33 19 4 10 2回戦 3回戦
2002 優勝 94 44 28 10 6 - 4回戦
2003 J1 14位 26 30 5 11 14 予選リーグ 3回戦
2004 C大阪 12位 16 15 4 4 7 - 4回戦
2005 5位 59 34 16 11 7 準々決勝 ベスト4
2006 - 4 8 1 1 6 - -
2008 J2 山形 2位 78 42 23 9 10 - 4回戦
2009 J1 15位 39 34 10 9 15 予選リーグ 3回戦
2010 13位 42 34 11 9 14 予選リーグ ベスト8
2011 18位 21 34 5 6 23 1回戦 3回戦
2012 J2 徳島 15位 51 42 13 12 17 - 3回戦
2013 4位 67 42 20 7 15 - 2回戦
2014 J1 18位 14 34 3 5 26 予選リーグ 3回戦
2015 J2 14位 53 42 13 14 15 - 4回戦
2016 清水 2位 84 42 25 9 8 - 4回戦
2017 J1 14位 34 34 8 10 16 予選リーグ 4回戦
2019 J3 北九州 優勝 66 34 19 9 6 - 2回戦
2020 J2 5位 65 42 19 8 15 - -
2021 21位 35 42 7 14 21 - 2回戦
2023 J3 20位 11 13 3 2 8 - -
2024 J2 栃木 18位 22 23 4 10 9 - 2回戦
J1通算 - - 257 63 66 128 - -
J2通算 - - 394 171 97 126 - -
J3通算 - - 47 22 11 14 - -
通 算 - - 625 252 164 259 - -
  • 2001年は5月より指揮(順位は最終順位)。
  • 2004年はセカンドステージのみ(順位はセカンドステージ順位)。
  • 2006年は第8節終了後に解任。
  • 2023年は9月より指揮(順位は最終順位)。
  • 2024年は5月から指揮。

表中の数字は小林が在籍中のもの。

タイトル

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クラブ

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大分トリニータ

ギラヴァンツ北九州

個人

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  • J3リーグ・優勝監督賞:1回(2019年)
  • J3リーグ・月間優秀監督賞:2回(2019年2・3月、2019年6月)
  • J2リーグ・優秀監督賞:1回(2020年)
  • J2リーグ・月間優秀監督賞:1回(2020年8月)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 小林伸二 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)清水エスパルス、2015年11月25日https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/315992023年6月23日閲覧 
  2. ^ 木村元彦「【育将・今西和男】小林伸二「ストライカー育成法の原点は『広島』にある」」『Web Sportiva』2016年2月11日、2面。2023年6月23日閲覧。
  3. ^ 小林管理強化部長を解任 後任に仏・グルノーブル前GMの田部氏」『西日本スポーツ』2007年11月14日。オリジナルの2007年11月17日時点におけるアーカイブ。2023年6月23日閲覧。
  4. ^ 小林伸二監督 契約更新のお知らせ』(プレスリリース)モンテディオ山形、2010年12月10日。オリジナルの2012年8月4日時点におけるアーカイブhttps://archive.is/v0yq/2023年6月23日閲覧 
  5. ^ モンテ小林監督の続投決まる 歴代最長の4季目突入へ」『山形新聞』2010年12月10日。オリジナルの2010年12月13日時点におけるアーカイブ。2023年6月23日閲覧。
  6. ^ 小林伸二監督の来季契約について』(プレスリリース)モンテディオ山形、2011年11月14日。オリジナルの2014年3月27日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20140327141604/http://www.montedio.or.jp/info/topteaminfo/20111114-01.html2023年6月23日閲覧 
  7. ^ 小林 伸二氏 来季監督就任のお知らせ』(プレスリリース)徳島ヴォルティス、2011年12月19日https://www.vortis.jp/news/detail.php?pressid=42432023年6月23日閲覧 
  8. ^ モンテ小林監督がJ2徳島へ」『山形新聞』2011年12月19日。オリジナルの2012年2月26日時点におけるアーカイブ。2023年6月23日閲覧。
  9. ^ 児玉幸洋「これぞ昇格請負人!徳島小林監督は史上初、3クラブ目のJ1昇格」『ゲキサカ』2013年12月8日。2023年6月23日閲覧。
  10. ^ 小林 伸二監督 契約更新のお知らせ』(プレスリリース)徳島ヴォルティス、2013年12月10日https://www.vortis.jp/news/detail.php?pressid=55302023年6月23日閲覧 
  11. ^ 初のJ1昇格を果たした徳島が小林伸二監督との契約更新を発表」『サッカーキング』2013年12月9日。2023年6月23日閲覧。
  12. ^ 小林伸二監督の契約について』(プレスリリース)徳島ヴォルティス、2015年11月12日https://www.vortis.jp/news/detail.php?pressid=70302023年6月23日閲覧 
  13. ^ 小林 伸二監督 契約解除のお知らせ』(プレスリリース)清水エスパルス、2017年12月5日https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/38561/2017年12月5日閲覧 
  14. ^ 小林 伸二 氏 監督およびスポーツダイレクター就任のお知らせ』(プレスリリース)ギラヴァンツ北九州、2018年12月17日https://www.giravanz.jp/news/p33473.html2018年12月17日閲覧 
  15. ^ 昇格請負人の次なる職場は北九州!小林伸二氏が全権監督として自身初となるJ3の舞台へ」『サッカーダイジェストWeb』2018年12月17日。2020年7月10日閲覧。
  16. ^ a b J3北九州 4季ぶりJ2復帰!“昇格請負人”小林監督が1年で導く」『スポーツニッポン』2019年11月25日。2019年11月26日閲覧。
  17. ^ J3北九州がJリーグ史上初の快挙!前年最下位から優勝決める」『スポーツニッポン』2019年12月1日。2019年12月2日閲覧。
  18. ^ 2019Jリーグ 各賞発表のお知らせ 最優秀選手賞は仲川 輝人選手(横浜F・マリノス)が初受賞~横浜F・マリノスからの受賞は3人目、得点王とダブル受賞~』(プレスリリース)Jリーグ、2019年12月8日https://www.jleague.jp/release/post-62206/2019年12月9日閲覧 
  19. ^ 小林 伸二 監督兼スポーツダイレクター 監督退任およびスポーツダイレクター専任のお知らせ』(プレスリリース)ギラヴァンツ北九州、2021年12月6日https://www.giravanz.jp/news/p35942.html2021年12月6日閲覧 
  20. ^ 北九州が小林伸二監督の退任を発表…来季はスポーツダイレクターを専任へ「立場は変わりますが、尽力していきたい」」『ゲキサカ』2021年12月6日。2023年6月23日閲覧。
  21. ^ "田坂 和昭 監督 辞任のお知らせ" (Press release). ギラヴァンツ北九州. 5 September 2023. 2023年9月5日閲覧
  22. ^ "小林伸二スポーツダイレクター 監督就任のお知らせ" (Press release). ギラヴァンツ北九州. 5 September 2023. 2023年9月5日閲覧
  23. ^ 小林伸二 新監督就任のお知らせ』(プレスリリース)栃木SC、2024年5月15日https://www.tochigisc.jp/news/532024年5月15日閲覧 
  24. ^ 【モンテディオ山形】3カ月の軌跡(中)頭脳 asahi.com、2009年6月22日付記事[リンク切れ]
  25. ^ 【清水】続投方針急転!小林伸二監督を解任 後任はポポヴィッチ氏らリストアップ」『スポーツ報知』2017年12月5日。オリジナルの2018年6月15日時点におけるアーカイブ。2023年6月23日閲覧。
  26. ^ 飯尾篤史「朝の情報番組でマニアックな戦術論。「みんなのレノファ」の志が熱い。」『Number Web』2019年5月31日、4面。2019年6月5日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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