コンテンツにスキップ

小山松寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小山 松寿
こやま しょうじゅ[1]
小山松寿の肖像写真
生年月日 (1876-01-28) 1876年1月28日
出生地 日本の旗 日本 長野県佐久郡小諸与良町(現・長野県小諸市
没年月日 (1959-11-25) 1959年11月25日(83歳没)
出身校 東京専門学校法律科卒業
前職 ジャーナリスト
所属政党 憲政会
立憲民政党
日本進歩党
称号 正三位
勲一等瑞宝章
勲一等旭日大綬章

日本の旗 第33代 衆議院議長
在任期間 1937年7月23日 - 1941年12月22日
天皇 昭和天皇

在任期間 1930年4月21日 - 1931年12月22日
衆議院議長 藤沢幾之輔
テンプレートを表示
小山松寿

小山 松寿(こやま しょうじゅ[1][2] / こやま まつじゅ[2][3][注 1]1876年1月28日 - 1959年11月25日)は、日本政治家、新聞経営者。第33代衆議院議長1937年7月 - 1941年12月)[4]1941年勲一等瑞宝章受章。歿時正三位勲一等旭日大綬章受章。

来歴・人物

[編集]

長野県佐久郡小諸与良町(現・小諸市)に、生糸仲買人・小山与右衛門の長男として生まれる。1895年東京専門学校(現・早稲田大学)法律科を卒業後[5]、中国研究のため福建省廈門に渡り、貿易事情を中心に調査活動を行っていた。1900年大阪朝日新聞より戦時特別通信員を委嘱されたことを契機に、新聞界入りすることとなる。

帰国後の1902年、大阪朝日に正式採用され、名古屋通信部に赴任する[5]。その後、名古屋支局長を務める[5]1906年、小山の手腕を見込んだ『中京新報』社長山田才吉より同紙を譲り受け、『名古屋新聞』と改題し新聞経営に乗り出す[5][6]普選運動を支持し、講演会に女性解放運動家の平塚雷鳥を招くなどの進歩的な論調で名古屋市内にて購読者層を拡げ、郡部を基盤とする政友会系のライバル紙『新愛知』と熾烈な販売競争を繰り広げた。一方で1907年名古屋市議当選を期に政界にも進出し[7][8]1915年に行われた第12回衆議院議員総選挙で名古屋市選挙区から最高点で衆議院議員に当選した[5]。以後10回連続当選[9]

1916年憲政会結成に参加。1923年、憲政会幹事長を務める[7]1925年には加藤高明内閣にて農林政務次官を務める[7]立憲民政党幹事長(1929年[5]、衆議院副議長(1930年 - 1931年[4]を経て、1937年衆議院議長に就任する[4][5]

1938年3月16日社会大衆党西尾末広国家総動員法の賛成演説の中で「スターリンのごとく」大胆に進めと演説したところ、共産主義を推奨していると攻撃された。西尾はその場で該当箇所を取り消すと発言するも、小山は受け容れず懲罰委員会に付し、結局衆議院除名となった。この除名騒動には、第1次近衛内閣に対する社会大衆党の“与党ぶり”に対する政友・民政両党の反感が底流にあったといわれている。

同年、名古屋に新しい大学の設置を求める「名古屋総合大学設置期成同盟会」に顧問として参加[9]。衆院議長という立場もあったためその後衆議院に提出された建議案には名前が載せられなかったが、名古屋を代表する政治家として名古屋帝国大学の設立に尽力した[9]

1940年2月2日、民政党の斎藤隆夫は「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」において、舌鋒鋭く政府・軍部批判を行った。散会後に軍部の政府委員から演説に対して非難の火の手が上がると、小山はすぐさま職権で(斎藤の了解を得てはいたものの)演説の後半部分、全体の3分の2を削除した[10]。それでも攻撃が緩まないと見るや、民政党幹部と協議の上西尾と同様に懲罰委員会送りにし、最終的に除名処分となった[10]

衆議院議長在籍時に西尾と斎藤の除名決議の議事に携わることになったが、軍部の力が強かった時代はいえ、議会制民主主義の根幹をなす「言論の自由」という命題について、小山が如何ほどの見識と覚悟をもって議長職に臨んでいたのか、肯定的[要出典]・否定的ともに多くの見方がある。

1942年新聞統制で『名古屋新聞』と『新愛知』が合併し中部日本新聞社が誕生すると、小山は新聞界の第一線から身を引く。戦後は日本進歩党に参加するも1946年公職追放され、以後は引退生活に入る[8]

小山松寿始め一族の墓

1959年11月25日、脳出血のため83歳にて死亡。墓所は名古屋市天白区の八事霊園[11]。没後正三位。

小諸懐古園の一角にある小山松寿の顕彰碑

1971年5月30日、出身地の小諸懐古園千曲川を見下ろす一角に顕彰碑が建立序幕された。顕彰碑文は小山邦太郎による。

家族

[編集]

義兄(妻の実兄)はジャーナリスト写真家森一兵で、新愛知との合併時まで名古屋新聞の社長を務めた。

長女・千鶴子の夫で小山家に養嗣子として迎えられた小山龍三は中日新聞社の経営に携わり、中日新聞社の社長・社主を務めた[12]

次女の夫(龍三の養弟)は中日新聞社相談役および中日ドラゴンズのオーナー兼球団社長を歴任した小山武夫

著書

[編集]
  • 『南清貿易』東京専門学校出版部, 1901.6
  • 『普選義解 国民要覧』編. 名古屋新聞社出版部, 1925
  • 『憲政会内閣の政績』編. 小山事務所, 1927
  • 『民政党及び浜口内閣の主義政策』編. 小山事務所, 1930

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「松寿」(旧字体表記「松壽」)は一般的に「しょうじゅ」と呼ばれているが、本来は「まつじゅ」と読むのが正しいとされる。

出典

[編集]
  1. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus『講談社』 - コトバンク
  2. ^ a b 1 小山松寿伝 - 国立国会図書館サーチ”. iss.ndl.go.jp. 2022年2月21日閲覧。
  3. ^ 岡田かおる「大学史編集所彙報」(早稲田大学大学史資料センター『早稲田大学史記要』23巻27号、1991), p210(93)
  4. ^ a b c 衆議院歴代議長・副議長一覧”. 衆議院. 2021年8月15日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 小山松寿 こやま しょうじゅ”. 国立国会図書館. 2021年8月15日閲覧。
  6. ^ 社史・沿革”. 中日新聞社. 2021年8月15日閲覧。
  7. ^ a b c 小山松寿関係文書”. 国立国会図書館. 2021年8月15日閲覧。
  8. ^ a b 藤井なつみ「小山松寿関係資料目録」『早稲田大学史記要』第51巻、早稲田大学大学史資料センター、2020年3月、312-290頁、hdl:2065/00073407ISSN 0511-1919NAID 120006867017CRID 10505667748542864642023年6月14日閲覧 
  9. ^ a b c ちょっと名大史 175. 名帝大初代総長渋沢元治の小山松寿宛書簡”. 名古屋大学. 2023年6月14日閲覧。
  10. ^ a b 4-10 反軍演説 史料にみる日本の近代”. 国立国会図書館. 2021年8月15日閲覧。
  11. ^ 『小山松寿伝』小山竜三記念基金、1986年12月、549頁。 
  12. ^ 小山勇本社元副社長 死去”. 東京新聞 (2020年6月11日). 2021年8月19日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 小山千鶴子編『小山松寿伝』(小山竜三記念基金、1986年

外部リンク

[編集]
議会
先代
冨田幸次郎
日本の旗 衆議院議長
第33代: 1937年 - 1941年
次代
田子一民
先代
清瀬一郎
日本の旗 衆議院副議長
第22代: 1930年 - 1931年
次代
増田義一