富塚三夫
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富塚 三夫(とみづか みつお、1929年2月27日 - 2016年2月20日)は日本の労働運動家、政治家。元日本労働組合総評議会(総評)事務局長、日本社会党衆議院議員(2期)。
富塚 三夫 とみづか みつお | |
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生年月日 | 1929年2月27日 |
出生地 | 日本 福島県伊達郡国見町 |
没年月日 | 2016年2月20日(86歳没)[1] |
出身校 | 明治大学政治経済学部卒業 |
前職 |
国鉄社員 国労東京地方本部委員長 国労本部書記長 総評事務局長 |
所属政党 |
(日本社会党→) 旧民主党 |
選挙区 | 旧神奈川5区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1983年12月19日 - 1986年6月2日 1990年2月19日 - 1993年6月18日 |
経歴
[編集]福島県伊達郡国見町出身。1943年、国有鉄道に就職。1955年3月、明治大学政治経済学部(二部)卒。
1966年に国労東京地方本部委員長、1973年に国労本部書記長となる[2]。
1975年の統一ストライキ(スト権スト)においては、公労協代表幹事として取り組んだ[2]。
1976年7月から1983年7月まで7年間総評事務局長を務めた。
1983年12月の衆議院議員総選挙に旧神奈川5区より日本社会党公認で立候補し当選。1986年の総選挙は落選したが、1990年に返り咲く。91年には社会党国際局長に就任。その後も1993年に旧神奈川5区から、1996年は神奈川15区より民主党公認で立候補したが落選し、政界を引退した。
2009年、ポーランド大統領レフ・カチンスキより「十字型功労賞」授与。
人物
[編集]- スト権スト中、NHK総合テレビの特別番組で、当時官房副長官であった海部俊樹と討論をおこなった。このときの海部の一歩も引かない態度が視聴者の好感を呼び、1980年代後半ネオ・ニューリーダーと目される下地をつくった。
- スト権スト前から、倉石忠雄をはじめとする自民党内の労働族議員と接触を持ち、スト権付与に理解を示していた彼らを取り込むことで、交渉を有利に進めようとした[3]。しかし自民党内の三木おろしをめぐる駆け引き、鉄道からトラックへの貨物輸送のシフト、一般国鉄利用者の予想以上の反感など、大局を読み間違えたことが敗北につながった。
- 妥協の天才あるいは労働界のラスプーチンともいわれた。
脚注
[編集]- ^ 元総評事務局長、富塚三夫さん死去86歳 毎日新聞 2016年2月22日閲覧
- ^ a b “富塚三夫(とみづか みつお)とは”. コトバンク. 2019年11月24日閲覧。
- ^ NHK取材班『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻』P340
- ^ 一郎, 針生, ed (1980). シンポジウム三里塚の思想. 柘植書房. pp. 36-37