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大隈綾子

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大隈綾子

大隈 綾子(おおくま あやこ、1850年11月28日嘉永3年10月25日[1] - 1923年大正12年〉4月28日[2])は、大隈重信の2番目のである[3]。50年以上にわたって夫を助け、賢妻の誉れ高かった[2][4]江藤新作小栗忠順の遺児である国子を育てたことでも知られる。旧姓は三枝。兄に小倉鉄道取締役を務めた三枝守富[5]。従兄に小栗忠順がいる[6]

略歴

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1850年(嘉永3年)、800石取りの旗本三枝七四郎の次女として江戸に生まれる[7]。幼少時には兄・守富とともに親族である駿河台小栗家に同居していた[8][9]明治維新によって実家が困窮し、のちに井上馨の妻となる同じく士族の岩松武子とともに茶屋奉公をしていたとも言われている[10](小僧時代に修業先で三枝家を見知っていた高村光雲はこれを否定している[11])。このころまでに父親を亡くしている[11]。18歳のとき、神田和泉橋の老舗の糸屋「辻屋」の次男で大工棟梁の養子になっていた柏木貨一郎という資産家の美男子と縁組したが、結婚しても夫婦間が疎遠で、そのままほどなく離縁となる[11]1869年明治2年)、20歳で大隈重信と結婚(重信も再婚)。結婚後は常に重信に付き添い、生涯仲睦まじい夫婦として知られた[12]

綾子は見かけは無口で控え目だが、度量が大きく、几帳面で[12]、気前がよく、義侠心に富み、負けず嫌いだった[7]。非常に行儀がよく、寝台列車でも寝ずに椅子に座って過ごすほどで、その気丈な性格から、下の者からは気難しいわがまま者と見られていた[7]。家内では重信も逆らえないかかあ天下で、「大隈を一人にすると失敗する」と言って常に同行し、重信から「うちの番頭」と呼ばれ信頼されていた[7]早稲田一帯の土地を購入したのも綾子の独断だった[7]。人に贈り物をしたり、もてなしたり派手なことが大好きで[注釈 1]、金に糸目をつけず社交に熱心だった[7]。大園遊会をしばしば開き、自分たちは大邸宅の10畳2間の居間に暮らし、他はすべて客に提供するなど、「世界の客間」と呼ばれるほどだった[7]

明治十四年の政変で重信が参議を免官となると、経済的に困窮したが、節約と土地の売り喰いで重信を支えた[7]1889年(明治22年)に重信が襲撃され、片足が手術で切断された際にも毅然として対処し、重信の杖となって献身的に支えた[14]1893年(明治26年)には、雲照が始めた夫人正法会の機関誌『法の母』の発起人に、毛利安子(公爵毛利元徳夫人)、蜂須賀随子(侯爵蜂須賀茂韶夫人)、井上武子(伯爵井上馨夫人)らとともに参加した[15]

1896年(明治29年)、重信は尾崎行雄から第2次松方内閣組閣への参加を頼まれたが、松方らの無能ぶりに呆れて断った。これを尾崎が綾子に進言したところ、「私に任せてください」と奥へ行ってしばらくすると、「大隈が承諾しました」と戻ってきた。重信は一度言い出したら人の言うことを聞く人間ではないのを知っていた尾崎は、綾子の「魔力」に驚いたという[16]1901年(明治34年)には愛国婦人会の発起人の一人となる[17]

重信が政界を引退すると再び経済的に困窮し、1909年(明治42年)には町田忠治らの手で資産の大整理が行なわれ、昔世話をし成功した者たちから寄付を集めて暮らした[7]1922年(大正11年)に重信が亡くなると、大隈邸の東側に新宅を建て、重信の前妻の娘である熊子と同居した。綾子は熊子を非常に頼りとし、熊子も気難しい養母によく尽くした[7]。翌年、重信のあとを追うように没した。

銅像問題

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大正天皇即位の大典に総理の大隈重信と文相の高田早苗が列席し、早稲田大学でも慶祝行事を行ったが、総長夫人である綾子のその時の御大礼袴姿の銅像を校内に建てる話が進み、具体化した。しかし、そのことをかぎつけた恩賜館組大山郁夫を主導者とする少壮教授グループ)は建設反対運動を起こした。維持員会はこれを受けて銅像を大隈庭園内に建設することに決定し、この問題については外部に漏らさぬことを約束した。しかし、浮田和民が自らの授業で恩賜館組の活動を公然と批判したことをきっかけとして銅像問題は高田早苗前学長再任問題(早稲田騒動)へと飛び火することになる[18][注釈 2]

綾子の銅像は彫刻家朝倉文夫の作で、1927年(昭和2年)の早稲田大学創立45周年の際、養子の大隈信常(綾子の兄の三女・光子の夫)により寄贈・建立され、現在大隈庭園に設置されている[12]

年譜

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  • 1850年 - 誕生。
  • 1868年 - 柏木貨一郎と結婚するも、その年に離婚。
  • 1869年 - 徴士参与職外国事務局判事の大隈重信と結婚(徴士とは各藩の藩士から新政府に登用された者を指し、重信は佐賀藩士としては副島種臣に次いで登用され、大抜擢であった)。7月、重信、大蔵大輔に就任(財政金融を司る実質上の最高責任者で、のちに大蔵省事務職総裁となる)。明治新政府に接収されていた戸川安宅の江戸屋敷跡(現・料亭「新喜楽」のある辺り)など築地に5000坪の土地を官から賜り、転居、多くの食客を抱え、築地梁山泊と呼ばれる[20]
  • 1870年 - 重信、新政府参議に就任(参議は太政官を構成する重職で、廃藩置県後は太政大臣・大納言とともに正院を構成。有力藩の代表者が選ばれ、明治政府の中心勢力を形成した)。
  • 1872年 - 日比谷(現・有楽町1丁目、東京宝塚劇場のある一帯)に邸宅を移転。重信、博覧会事務局総裁となる。
  • 1873年 - 重信、参議兼大蔵卿となる。
  • 1874年 - 佐賀の乱で死刑になった江藤新平の遺児・新作を引き取る。重信、台湾蕃地事務局長官を兼務。
  • 1876年 - 日比谷の自邸の戸や障子が毎晩ガタガタ音がすることから転居することにし、霊気を鎮めるため跡地に大神宮を祀るように指示(のちに大神宮は移転)。江藤新平の祟りという噂が立った[21]
  • 1877年 重信、西南戦争征討費総理事務局長官を兼務。
  • 1880年 - 重信の連れ子の熊子、結婚。婿養子として南部英麿を迎える[22]
  • 1881年 - 3月 重信、国会開設意見書提出(国会の早期開設を含む急進的な内容は、伊藤博文を激怒させ、重信の下野の導因となった)。7月 明治天皇の東北巡幸に供奉。10月 重信に参議免官の辞令が下り、政府から追放される(明治十四年の政変)。
  • 1882年 - 3月 重信、立憲改進党を結成し、党首となる。10月、東京専門学校を創設(熊子の夫、大隈英麿が校長を務める)。自邸にて園遊会などが多数開かれ、多忙を極める。
  • 1885年 - 綾子の従兄である小栗忠順の遺児・国子(16歳)を引き取る。
  • 1887年 - 重信、伯爵を授かり、綾子も伯爵夫人となる。
  • 1888年 - 重信、伊藤内閣・黒田内閣の外務大臣に就任。
  • 1889年 - 10月 重信が政治団体玄洋社来島恒喜の投じた爆弾により負傷し、右脚切断。12月 外相を辞任。
  • 1893年 - 綾子、浄土真宗夫人正法会の発起人になる。
  • 1894年 - 日清戦争勃発。
  • 1895年 - 1月、姑・三井子逝去。三井子は綾子を非常に気に入っており、嫁姑の仲は良かったという[23]
  • 1896年 - 重信、第2次松方内閣の外務大臣に就任。
  • 1898年 - 6月、重信、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣を組閣し、内閣総理大臣兼外務大臣に就任。綾子、内閣総理大臣夫人になる。
  • 1901年 - 綾子、愛国婦人会の発起人���なる。豊多摩郡下戸塚村の自邸が全焼[24]
大隈新邸台所。当時、神楽坂までしか来ていなかったガスを早稲田まで引かせて邸内をガス化し、台所にはガスレンジとガスかまどが置かれた[25]。台所は25坪と広く、天井にはガラス窓があって明るく衛生的で、当時の台所の模範とされた[26]
  • 1902年 - 東京専門学校を早稲田大学と改称。早稲田に新しい大隈邸が落成(和館と洋館から成り、洋館の設計は保岡勝也[27]1945年の空襲で全焼。わずかに焼け残った部分が現・早稲田大キャンパス守衛詰所として残されている[28])。重信の長女・熊子、離婚。綾子の姪・光子(兄の娘)と松浦常を結婚させ[29]、常を養子縁組して大隈信常とし跡継ぎとする。
  • 1904年 - 日露戦争勃発。
  • 1907年 - 重信、政界を引退し、早稲田大学総長に就任。
  • 1910年 - 重信、白瀬矗の南極探検隊後援会長就任。
  • 1912年 - このころの大隈邸への来客は、年間約24,000人あった[30]
  • 1914年 - 4月 重信、首相となり第2次大隈内閣を組閣し、綾子も再び首相夫人になる。7月、第一次世界大戦勃発。
  • 1916年 - 重信、侯爵を授かり、綾子も侯爵夫人となる。10月、内閣総辞職。12月、綾子像は大学構内ではなく大隈庭園内に設置することに決定。
  • 1922年 - 重信、85歳で逝去。
  • 1923年 - 72歳で逝去[31]

人物

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  • 宮武外骨は、男勝りの女として、鳩山春子濱尾作子下田歌子三輪田真佐子、棚橋絢子、毛利安子跡見花蹊矢嶋楫子とともに綾子の名を挙げている[32]
  • 近藤富枝は、「賢く、しかもなかなか胆のすわった女性だったらしい」と書いている[33]
  • 大隈重信のもとへ嫁ぐ前、何年にもわたって何千枚という短冊に「南無阿弥陀仏」と書いていた。この短冊の供養を頼まれた高村光雲は、全部川に流し終わるのに2時間かかったという[11]
  • 刺繍が趣味で、片時も針を手離さなかった。出来上がったものは人にあげてしまった。慈悲心に富み、服も一度着たら人にあげてしまい、貧民に金や物品を恵むだけでなく、邸内に集めて米を与えたりもした。また非常な潔癖症で、邸内にはちりひとつなく、家の中も鏡のように磨かれていた[34]
  • ダンスも洋装も嫌いだったので、鹿鳴館の夜会にも和服姿で参加していた。それを見習って、着物で来る者も増えていった[35]
  • 兄の三枝守富(1844年生)は1878年に大蔵省紙幣局内の写真撮影所で写真研究を始め、印刷局長の得能良介らの古美術調査に撮影者として参加。 1883年に日本発のコロタイプ印刷による「明陳賢観音画帖」を制作したほか、「国華余芳」「朝陽画帖」などの画帖を制作。 のちに小倉鉄道や日本坩堝などの取締役を務めた[36]
  • 朝吹英二は綾子の大のお気に入りだった[37]

登場する作品

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 東京専門学校および早稲田大学早稲田工手学校の卒業式では成績優秀者に綾子名で賞品を授与することが慣例となっていた[13]
  2. ^ なお、銅像問題で学生たちはほとんど騒いでおらず、尾崎士郎の『人生劇場』には一部の誇張がある[19]

出典

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  1. ^ 『華族名鑑. 明治23年版』 彦根正三編、博公書院、1890年
  2. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  3. ^ 20世紀日本人名事典. “大隈 綾子とは”. コトバンク. 2021年9月22日閲覧。
  4. ^ 『大隈侯一言一行』市島謙吉(早稲田大学出版部, 1922年)
  5. ^ 美術人名辞典
  6. ^ 小栗上野介忠順家系図近現代系図ワールド
  7. ^ a b c d e f g h i j 『人間大隈重信』五来欣造、早稲田大学出版部, 1938年
  8. ^ 『寛政譜以降旗本家百科事典』小川恭一編, 1997年 1163頁
  9. ^ 『会津へ逃れた道子夫人』
  10. ^ 『老記者の思ひ出』朝比奈知泉、中央公論社, 1938年
  11. ^ a b c d 幕末維新懐古談 大隈綾子刀自の思い出 高村光雲
  12. ^ a b c キャンパスがミュージアム Vol.2 大隈庭園編早稲田大学文化推進部
  13. ^ 早稲田大学百年史 総索引年表/年表 明治二十年~二十九年
  14. ^ 『当世活人画 : 一名・名士と閨秀』佐瀬得三 (儘世) 著 (春陽堂, 1900年)
  15. ^ 『真宗史仏敎史の研究』柏原祐泉、平楽寺書店, 2000年
  16. ^ 松方正義公『近代快傑録』尾崎行雄、千倉書房, 1934年
  17. ^ 近代日本における女子通信初等・中等教育の推移と社会的役割総合科学研究第8号、名古屋女子大学総合科学研究所、2014年(平成26年)5月
  18. ^ 早稲田大学百年史』 第二巻、848-854頁
  19. ^ 服部嘉香 『随筆 早稲田の半世紀』 中和出版、1957年、25頁
  20. ^ 築地史料館:築地の梁山泊
  21. ^ 大隈邸の怪談 明治9年5月新聞集成明治編年史 第二卷 (林泉社, 1940年)
  22. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  23. ^ 『明治大臣の夫人』岩崎徂堂 著 (大学館, 1903年)
  24. ^ 大隈伯邸全焼す 明治34年3月14日新聞集成明治編年史. 第十一卷 (林泉社, 1940年)
  25. ^ 第4回講座 東京ガスの歴史とガスのあるくらし高橋豊、川崎区役所、平成18年10月19日
  26. ^ 台所の模範 大隈伯爵家の台所『食道楽 夏の巻』村井弦斎著 (報知社, 1913年)
  27. ^ 保岡勝也イナックス・レポート175号
  28. ^ 学生リポーターが行く大隈重信ゆかりのスポット巡り早稲田ウィークリー、2013年10月14日
  29. ^ 大隈邸の結婚披露、明治33年10月11日新聞集成明治編年史 第十一卷 (林泉社, 1940年)
  30. ^ 『エピソード 大隈重信』早稲田大学
  31. ^ 大隈重信関係資料早稲田大学
  32. ^ 『通俗心理奇問正答』宮武外骨, 高島平三郎、文武堂書店, 1918年
  33. ^ 『鹿鳴館貴婦人考』講談社, 1980年
  34. ^ 『世界名士の癖』榎本秋村 (実業之日本社, 1916年)
  35. ^ 『明治のお嬢さま』黒岩比佐子、角川学芸出版, 2008年
  36. ^ 三枝 守富(さえぐさ もりとみ)幕末・明治の写真師総覧
  37. ^ 『まかり通る電力の鬼・松永安左エ門』小島直記、東洋経済新報社, 2003年

外部リンク

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先代
伊藤梅子
山本登喜子
内閣総理大臣夫人
1898年6月30日 - 1898年11月8日
1914年4月16日 - 1916年10月9日
次代
伊藤梅子
寺内タキ