大沢雄一
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大沢 雄一 おおさわ ゆういち | |
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生年月日 | 1902年12月13日 |
出生地 | 埼玉県北葛飾郡三輪野江村(現吉川市) |
没年月日 | 1984年7月23日(81歳没) |
出身校 | 中央大学専門部法学科卒業 |
所属政党 |
(無所属→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 |
正四位 勲二等旭日重光章 浦和市名誉市民 |
選挙区 | 旧埼玉4区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1960年11月20日 - 1963年10月23日 |
選挙区 | 埼玉県地方区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1956年7月8日 - 1960年10月 |
第43代 - 第44代 (公選制第2代 - 第3代)埼玉県知事 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1949年5月17日 - 1956年5月29日 |
大沢 雄一(おおさわ ゆういち、1902年(明治35年)12月13日[1] - 1984年(昭和59年)7月23日[2])は、日本の政治家。埼玉県知事(公選第2、3代)、参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、内務官僚。
経歴
[編集]1902年、埼玉県北葛飾郡三輪野江村(現吉川市)に生まれる[3]。
野口英世のような存在を目指して医師を志し、父も村で開業医になることを望んでいた[4]。だが旧制新潟高等学校入学後に結核にかかり、5年の療養後に今度は弁護士を目指して中央大学専門部法学科に入学[3]。
1929年大学卒業後は内務省に入り、佐賀県赴任を経て中国開封領事として終戦を迎え、引き揚げ[3][5]。
埼玉に戻ると県教育部長や総務部長になった後の1949年、埼玉県知事に当選[4]。知事としては県庁舎や県財政の再建、町村合併促進、工場誘致、保健所開設、武蔵野線実現に向けて携わった[4]。1956年5月[4]、知事2期目途中で辞任。同年7月、第4回参議院議員通常選挙埼玉県地方区に自由民主党から出馬し、初当選[4][5]。
1959年第2次岸改造内閣建設政務次官[4]。1960年10月参議院議員を辞職、翌11月第29回衆議院議員総選挙埼玉4区に自由民主党から出馬し、初当選[4][5]。首都圏整備委員会委員として武蔵野線、常磐自動車道、東京外かく環状道路建設に携わった[4]。
1974年浦和市名誉市民、1980年春の叙勲で勲二等旭日重光章を受章(勲五等からの昇叙)[3][6]。
1984年7月23日死去、81歳[3]。死没日をもって従五位から正四位に叙される[7]。
脚注
[編集]- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外��ソシエーツ株式会社、2012年、226頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』127頁。
- ^ a b c d e “大沢雄一物語を発行しました”. 吉川市. 吉川市生涯学習課市史編さん係 (2017年9月13日). 2022年12月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “大沢雄一物語” (PDF). 吉川市. 吉川市生涯学習課市史編さん係 (2017年9月). 2022年12月17日閲覧。
- ^ a b c 「大沢 雄一」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』 。コトバンクより2022年12月18日閲覧。
- ^ 『官報』号外第26号48頁 昭和55年5月6日号
- ^ 『官報』第17248号15-16頁 昭和59年8月3日号
参考文献
[編集]- 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』衆議院、1990年。
公職 | ||
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先代 西村実造 |
埼玉県知事 公選第2 - 3代:1949年 - 1956年 |
次代 畑和 |