大塚保治 (美学者)
大塚 保治(おおつか やすじ、1869年2月1日(明治元年12月20日) - 1931年(昭和6年)3月2日)は、日本の美学者、東京帝国大学教授。夏目漱石との交友でも知られる。旧姓・小屋。
経歴
[編集]明治元年(1869年)上野国勢多郡木瀬村大字笂井(現・群馬県前橋市笂井町)に、小屋宇平治(卯平治)の次男として生まれる[1][2]。兄・右兵衛は木瀬村長を務めた[1][2]。現在の前橋市立笂井小学校、群馬県立前橋高等学校を卒業後に上京。旧制第一高等学校を経て、明治24年(1891年)に帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科を卒業[1]。明治28年(1895年)、東京控訴院長・大塚正男の長女である大塚楠緒子と結婚し、大塚姓になる(大塚家の養子となる)[1][2]。妻・楠緒子は歌人、作家としても活躍した。
大学卒業後、東京専門学校文学科講師となりハルトマンの美学を講義。明治29年(1896年)より4年間ドイツ・フランス・イタリアに留学し、明治33年(1900年)帰国、東京帝国大学教授となり美学を講じた[1][2]。東京帝国大学の美学講座を開いた初の日本人教授である。日本の美学研究の礎を築いた。明治34年(1901年)、文学博士[1][2]。大正14年(1925年)、帝国学士院会員。昭和4年(1929年)定年退官、東大名誉教授となる。昭和6年(1931年)死去。墓所は雑司ヶ谷霊園。
楠緒子との息子にレーニンの著作集『カール・マルクス 他五篇』(岩波文庫)の翻訳をした大塚弘[3]。後妻との娘は大内力に嫁いだ[3]。
漱石との交遊
[編集]漱石の友人で『吾輩は猫である』に登場する美学者・迷亭のモデルとも言われる。
1910年に妻の楠緒子が早世したとき、漱石は「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という句を詠んだ。(『硝子戸の中』25)
著作
[編集]自身で著述を残さなかったので、死後その弟子らが『大塚博士講義集』(1933・1936年)を纏めた[1]。論文に『ロマンチックを論じて我邦文芸の現況に及ぶ』(1902年)など。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 木瀬村誌編纂委員会『木瀬村誌』1995年9月20日(原著1995年9月20日)。doi:10.24484/sitereports.101883。 NCID BN1378655X 。
- 勢多郡誌編纂委員会『勢多郡誌』勢多郡誌編纂委員会、1958年。