俊芿
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俊芿 | |
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仁安元年8月10日 - 嘉禄3年閏3月8日 (1166年9月6日 - 1227年4月25日) | |
号 | 不可棄 |
諡号 | 月輪大師 |
尊称 | 大興正法国師 |
宗派 | 真言宗 |
寺院 | 泉涌寺 |
廟 | 泉涌寺 |
俊芿(しゅんじょう)は、鎌倉時代前期の僧。出自については不詳である。肥後国飽田郡[1]の出身。字は我禅。号は不可棄。勅号は大興正法国師、諡号は月輪大師(がちりんだいし)[2]。真言宗泉涌寺派の宗祖とされる。
業績
[編集]寿永3年(1184年)、18歳の時に出家剃髪し、翌文治元年(1185年)に大宰府観世音寺で具足戒を受けた[3]。正治元年(1199年)には、「伝律」のため中国(宋)に渡った[4]。径山の蒙庵元総に禅を、四明山景福寺の如庵了宏に律を、北峰宗印に天台教学を学んで[5]、12年後の建暦元年(1211年)に日本に帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った[6]。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家など多くの信者を得て、そこから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となり、以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えることとなった。俊芿の伝記としては、鎌倉時代に成立した『不可棄法師伝』が知られている[7]。
書
[編集]能書家としても知られ、その書名は宋朝においても高かったといわれる。日本に宋風の新書風をもたらした功は大であり、筆跡としては、『泉涌寺勧縁疏』(せんゆうじかんえんそ)と『附法状』がともに国宝として泉涌寺に現存する。
泉涌寺勧縁疏
[編集]仙遊寺を泉涌寺と改めた翌年の承久元年(1219年)10月、54歳のときに書した勧縁疏である。文章・書風ともに優れており、風格・骨法は宋代に流行した黄山谷風の行書体である。5紙1巻よりなり、外題に「造泉涌寺勧進疏」とある。大きさは、40.8cm×29.3cm。
参考文献
[編集]出典
[編集]- ^ 中嶋繁雄著、宮坂宥勝監修『日本の名僧100人』河出文庫、1993、100-101頁
- ^ 明治16年(1883年)に宣下、明治天皇
- ^ 熱田公「序章 開山俊芿律師とその時代」総本山御寺泉涌寺編『泉涌寺史 本文篇』法蔵館、1987年、7頁
- ^ 熱田公1987、9頁
- ^ 熱田公1987、11-15頁
- ^ 熱田公1987、27,31頁
- ^ 熱田公「序章 開山俊芿律師とその時代」総本山御寺泉涌寺編『泉涌寺史 本文篇』法蔵館、1987年、1頁