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ロマノス1世レカペノス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロマノス1世レカペノス
Ρωμανός Αʹ Λεκαπηνός
東ローマ皇帝
ロマノス1世と息子クリストフォロスの描かれたソリドゥス金貨
在位 920年12月17日 - 944年12月16日

出生 870年
東ローマ帝国、テマ・カッパドキアス
死去 948年6月15日(77-78歳没)
プリンキポス諸島プーロティ島
配偶者 テオドラ
子女 ヘレネ
クリストフォロス英語版
ステファノス
コンスタンティノス
テオフュラクトス英語版
(庶子)バシレイオス・ノソス英語版
家名 レカペノス家
王朝 マケドニア王朝
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ロマノス1世レカペノスギリシア語Ρωμανός Αʹ Λεκαπηνός, Rōmanos I Lekapēnos, 870年 - 948年6月15日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝皇帝(在位:920年 - 944年)。マケドニア王朝開祖のバシレイオス1世同様、アルメニア人農民の子として生まれ、海軍士官として出世、帝国海軍の司令長官(ドルンガリオス・トゥー・プロイムー英語版)となった。

生涯

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917年コンスタンティノス7世の母で摂政のゾエ・カルボノプシナ英語版ブルガリア帝国と戦って敗れ、その権威が失墜すると、ロマノスは919年3月にクーデターを起こしてゾエ・カルボノプシナを追放。娘ヘレネをコンスタンティノスに嫁がせてその義父となり、同年9月には副皇帝、12月には共同皇帝となり、帝国の実権を掌握した。そして920年12月、自ら正皇帝として即位し、コンスタンティノス7世を共同皇帝へ格下げしたのである。

即位後は、巧みな婚姻策によって貴族との結びつきを強化し、レカペノス家による帝位の世襲化を図った。また、宗教上の政策から教会との関係も深め、その経緯から933年にはロマノス1世の末子・テオフュラクトス英語版総主教となっている。対外においては、ブルガリア帝国シメオン1世が侵攻して来るが、ロマノス1世はクロアト族と結びあうことでこれを撃退した。やがて927年にシメオンが死去すると、ブルガリアと和睦を結び、その際シメオンの息子ペタル1世英語版に長男クリストフォロスの娘マリアを降嫁させることで帝国西方の国境を安泰なものとした[1]。一方、東方に対しても名将・ヨハネス・クルクアス英語版のもと、イスラム勢力に対して攻勢をかけ、東方に大きく勢力を拡大することに成功したのである。941年にはキエフ大公国の艦隊にコンスタンティノープルが攻撃されたが、これを撃退している(en:Rus'–Byzantine War (941))。

931年-944年のミリアレンセ銀貨(en)。表:十字の中心にロマノス1世。裏:共同皇帝コンスタンティノス7世と、ステファノス、コンスタンティノス(ロマノス1世レカペノスの息子達で共同皇帝)の名が刻まれている。

他方で帝位世襲化の試みは、931年に期待していた長男のクリストフォロス英語版が父に先立って早世したことで結果的に挫折する。ロマノス1世は世襲をあきらめて、944年にはコンスタンティノス7世を帝位継承者として指名した。ロマノス1世には、クリストフォロスのほかにもステファノス、コンスタンティノスといった実子がいたが、ロマノス1世は彼らを無能と評していたため、継承者から除外したのである。ところが、この継承に対して二人の実子は不満を持ち、同年12月にロマノス1世は帝位を追われてマルマラ海のプリンキポス諸島(現在のプリンスィズ諸島)へ追放され、修道士にされてしまったのである。

さらに二人は、コンスタンティノス7世をも排除して帝位を我が物にしようとしたが、民衆の支持を得ていたコンスタンティノス7世の排除には失敗し、逆に捕縛されて追放されてしまった。こうして、コンスタンティノス7世が正皇帝として復位することとなった。

ロマノス1世は948年6月15日、孤独な修道士として死去した。レカペノス家の名はその後東ローマ帝国の歴史には登場しなくなるが、ロマノスの庶子で宦官となったバシレイオス・ノソス英語版はコンスタンティノス7世の息子ロマノス2世の治世から、バシレイオス2世によって追放されるまで、事実上の宰相として行政を司り、権勢を誇った。

脚注

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  1. ^ このときマリアはギリシア語で平和を意味するエイレーネーに改名している。

参考文献

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先代
コンスタンティノス7世
東ローマ皇帝
920年 - 944年
次代
コンスタンティノス7世