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ロイ・キャンパネラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロイ・キャンパネラ
Roy Campanella
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ペンシルベニア州フィラデルフィア
生年月日 1921年11月19日
没年月日 (1993-06-26) 1993年6月26日(71歳没)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1946年
初出場 1948年4月20日
最終出場 1957年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1969年
得票率 79.41%
選出方法 BBWAA選出

ロイ・キャンパネラRoy Campanella, 1921年11月19日 - 1993年6月26日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身のプロ野球選手捕手)。右投げ右打ち。愛称は"Campy"(キャンピー)。

リーグ最優秀選手を3度獲得、ドジャース在籍10年間でチームを5度のワールドシリーズに導いた。

また、通算盗塁阻止率は.574である。これはMLBで500試合以上捕手として出場した選手の通算盗塁阻止率の歴代最高記録である。

経歴

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ニグロリーグ、マイナーリーグ在籍期(1937年 - 1947年)

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イタリア人の父とアフリカ系アメリカ人の母を持つキャンパネラは、1937年に15歳でニグロリーグのワシントン・エリート・ジャイアンツに入団。チームのスター選手になる。またこの頃は時折メキシカンリーグでもプレーしていた。

1946年にキャンパネラはブルックリン・ドジャースとマイナー契約を結び、当時のクラスBリーグのナシュア球団に所属。同年キャンパネラは前任のウォルター・オルストンから監督職を引き継ぎ、アフリカ系アメリカ人としては初めての監督職を務めている。

ドジャース在籍期(1948年 - 1957年)

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1953年

ジャッキー・ロビンソンがデビューした翌年の1948年、26歳でドジャース昇格を果たす。MLBでも、打力に加え機敏な守備、強肩など総合力の高さを発揮し、翌1949年にはオールスターゲームワールドシリーズへの出場も果たした。

1951年には、打率.325、108打点を上げ、リーグのMVPに選ばれた。1953年には142打点、103得点、41本塁打で二度目のMVPを獲得、3度目のMVPは1955年で、この時は打率.318、107得点、32本塁打を記録した。同年のワールドシリーズでは、それまで何度も対戦し敗退してきたニューヨーク・ヤンキースと再び対戦、キャンパネラは2勝先行された後の第3戦と第4戦に本塁打を放って対戦成績をタイに持ち込み、念願だったワールドシリーズ制覇を成し遂げた。

1957年シーズン最終戦、ドジャースのエベッツ・フィールドでの最終戦に出場する。この年のオフに、交通事故が元で現役を引退したため、この試合が彼の現役最後の試合となった。

事故と引退後

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1958年シーズン開幕前、ニューヨークのハーレムで酒屋を営んでいたキャンパネラは、車を運転して店からロングアイランドの自宅に戻る途中、路上の氷片にぶつかって横転する事故を起こした。この事故で下半身麻痺となり、以後終生車椅子での生活を余儀なくされた。最初は手も動かせない状態であったが、懸命なリハビリに取り組み両手を動かせるまでに回復した。

1959年にはヤンキースとの引退試合が挙行され、キャプテンのピー・ウィー・リースが押す車椅子に座ったキャンパネラが登場すると、本拠地ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを埋めた93,103人の大観衆は、一度もロサンゼルスでプレイすることのなかった名捕手に大歓声と総立ちの拍手を送り、キャンパネラは涙が止まらなかった[1]。この試合は非公式戦(オープン戦)であったが、MLB史上最多観客を記録した試合として、半世紀近く記録に残った。(2008年3月29日、ドジャースのロサンゼルス移転50周年を記念したオープン戦(対レッドソックス)が同じロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで開催され、米国スポーツ史上最多、そして世界の野球史上でも最多となる115,300人の観客を動員し、更新された。)

キャンパネラの背番号「39」。
ロサンゼルス・ドジャースの永久欠番1972年指定。

1969年、投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。アフリカ系アメリカ人関係の選手としては、チームメイトだったジャッキー・ロビンソンに次ぐ栄誉だった。その3年後の1972年6月4日に、キャンパネラの背番号『39』が、サンディ・コーファックスの『32』、ジャッキー・ロビンソンの『42』と共にドジャース初の永久欠番に指定された。

その後はカリフォルニア州に居を移し、古巣ドジャースのアドバイザーとして、車椅子の身ながら長くチームに携わっていた。 1993年6月26日に心臓発作のため、カリフォルニア州ウッドランドヒルズの自宅で死去。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1948 BRO 83 320 279 32 72 11 3 9 116 45 3 -- 5 -- 36 -- 1 45 3 .258 .345 .416 .761
1949 130 507 436 65 125 22 2 22 217 82 3 -- 1 -- 67 -- 3 36 11 .287 .385 .498 .883
1950 126 494 437 70 123 19 3 31 241 89 1 -- 0 -- 55 -- 2 51 17 .281 .364 .551 .915
1951 143 562 505 90 164 33 1 33 298 108 1 2 0 -- 53 -- 4 51 19 .325 .393 .590 .983
1952 128 533 468 73 126 18 1 22 212 97 8 4 5 -- 57 -- 3 59 22 .269 .352 .453 .805
1953 144 590 519 103 162 26 3 41 317 142 4 2 0 -- 67 -- 4 58 13 .312 .395 .611 1.006
1954 111 446 397 43 82 14 3 19 159 51 1 4 4 1 42 -- 2 49 13 .207 .285 .401 .686
1955 123 522 446 81 142 20 1 32 260 107 2 3 5 9 56 9 6 41 14 .318 .395 .583 .978
1956 124 461 388 39 85 6 1 20 153 73 1 0 4 2 66 15 1 61 20 .219 .333 .394 .727
1957 103 380 330 31 80 9 0 13 128 62 1 0 6 6 34 6 4 50 11 .242 .316 .388 .704
MLB:10年 1215 4815 4205 627 1161 178 18 242 2101 856 25 *15 30 *18 533 *30 30 501 143 .276 .360 .500 .860
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は不明年度がある事を示す

タイトル

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表彰 

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背番号

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  • 33(1948年)
  • 39(1948年 - 1957年)

特筆・エピソード

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1961年のキャンパネラ

脚注

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  1. ^ 1958年より、ブルックリン・ドジャースはニューヨークから本拠地をロサンゼルスへと移し、ロサンゼルス・ドジャースへとチーム名を変更している。そのため、1958年シーズン前に現役を引退したキャンパネラは一度もロサンゼルスでの試合には出場していない。

関連項目

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外部リンク

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