ランベルト・レオーニ
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ランベルト・レオーニ | |
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基本情報 | |
国籍 | イタリア |
出身地 | 同・アルジェンタ |
生年月日 | 1953年5月24日(71歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1977年-1978年 |
過去の所属チーム |
'77 サーティース '78 エンサイン |
出走回数 | 5 (1スタート) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1977年イタリアグランプリ |
最終戦 | 1978年アメリカ西グランプリ |
ランベルト・レオーニ(Lamberto Leoni, 1953年5月24日 - )は、イタリア出身の元レーシングドライバー。ファースト・レーシング創設者[1]。
経歴
[編集]フォーミュラ3参戦
[編集]1973年にプライベーターとしてテクノ・TF71を入手しイタリアF3選手権に参戦。1974年にマーチ・743を入手すると決勝進出機会を増やし、最高8位を記録する。イタリアF3に同時期参戦した選手にはアルベルト・コロンボ、ジョルジオ・フランシア、ピエルカルロ・ギンザーニなどがいた。
ミナルディの前身に加入
[編集]1975年にチームとしてイタリアF3からヨーロッパF2に進出したスクーデリア・デル・パサットーレ(のちのミナルディ)に加入し、チームと共にF2へステップアップ。チームメイトはジャンカルロ・マルティニ(ピエルルイジ・マルティニの叔父)であった。1975年ヨーロッパF2開幕戦でレオーニは3位表彰台の活躍を見せ、第2戦ではマルティニが3位とチームは好調な出だしだったが、それが最高成績となり以後の結果は下降していった。1976年にチームは「スクーデリア・���ベレスト」と名を変え、レオーニはイギリス、イタリア、ヨーロッパの各F3選手権に参戦。ヨーロッパ第5戦エンナ・ペルグーサ/ヒート1ではポールポジションを獲得した。
フォーミュラ1
[編集]1977年はエベレストがラルト・RT1シャシーを購入し、参戦カテゴリーをヨーロッパF2への再挑戦としたが、予選通過に苦戦しレオーニはF2第10戦よりトリヴェラート・レーシングへと移籍する。するとその2戦目で、2ヒート制の合計タイムでエディ・チーバーを上回ってF2初優勝を達成し、評価が急騰。直後に迫っていたF1第14戦イタリアGPに向けてスポンサー資金が集まり、サーティースと契約を結びスポット参戦することになった。しかし、サーティースはチームに資金をもたらしていたダニー・オンガイスが序盤2戦のみでスポンサーと共に自チーム設立のため去ってしまったため、深刻な資金難に陥り悲惨な状況にあった。このためTS19に乗る前任者だったトニー・トリマー、パトリック・タンベイ、ヴァーン・シュパンも予選落ちをするレベルのマシンであり、レオーニも決勝進出タイムを出せず予選通過に失敗する。
1978年にエンサインと契約し、開幕からF1のレギュラーシートを獲得したが、第3戦、第4戦と連続で予選通過に失敗すると、チームボスであるモーリス・ナンが有望と感じていたジャッキー・イクスを誘ったため、シートを奪われてチームを去った。同年はその後全日本F2選手権にスポット参戦した。
フォーミュラ2
[編集]レオーニは1979年にヨーロッパF2に戻るが、6月で参戦資金が尽き撤退。1981年にF3シャシー製造を本格化し始めたコンストラクター、ダラーラのF380シャシーでイタリアF3選手権に参戦。1982年は6月からアルトゥーロ・メルツァリオが立ち上げたチームに加入し、ヨーロッパF3選手権やF2選手権に参戦した。
レーシングチーム設立
[編集]その後、1985年より改組され新たなカテゴリーとして始まった国際F3000選手権にも参戦を続けた。1987年に彼自身のチーム「ファースト・レーシング」を創設。チームオーナー兼ドライバーとして参戦し、チームメイトにはガブリエル・タルキーニを起用。3台目のマシンにはベッペ・ガビアーニ、クラウディオ・ランジェス、アラン・フェルテを交代で乗せた。1988年6月11日に行われたル・マン24時間レースに伊太利屋チーム・ルマンの日産・R88Sで参戦しエンジントラブルでリタイヤしたのが、ドライバーとしては最後のレースとなった。
以降はチームオーナー業に専念し、レオーニのファースト・レーシングは国際F3000選手権では上位のグループに属して1988年にピエルルイジ ・マルティニが1勝を挙げランキング4位を獲得。1989年と1990年はマルコ・アピチェラが未勝利ながら表彰台の常連としてタイトル争いに絡み、ランキング4位と6位を獲得した。
1989年に向けてのFIAによるF1エンジンレギュレーション変更により、ターボ禁止・NA3500ccエンジンのみに規制されたのを受け、ファースト・レーシングのF1参戦計画を進めた。ドライバーはタルキーニと契約し、オリジナルマシンの完成まで至っていたが、資金調達の問題により89年シーズンの開幕直前でF1計画は断念された[2]。同年夏にこのシャシーはライフに売却され[3]、1990年のライフ・L190に流用された[4]。レオーニはその後、ファーストのF3000活動でエースとなっていたマルコ・アピチェラをマネジメントした。
レオーニは1991年まで国際F3000選手権でチーム運営をしたが、同年途中で撤退。以後はディディエ・ピローニがそうだったようにパワーボートレースに活動を移した。パワーボートでは多くの勝利を勝ち取り、1993年の世界選手権で王座を争う活躍を見せた[5]。その活動のかたわら、ジュニア・フォーミュラのレースにトーマス・ビアッジやシリル・ソバージュを起用して復帰した時期もある。
レース戦績
[編集]FIA ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
[編集]年 | チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | Pos. | Pts |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976年 | スクーデリア・エベレスト | マーチ・763 | トヨタ・2T-G | NÜR | ZAN | MAN | AVU | PER 5 |
MNZ Ret |
CET Ret |
ÖST 5 |
KAS 23 |
KNU Ret |
VLL Ret |
18位 | 2 | ||||
1981年 | ランベルト・レオーニ | ダラーラ・F380 | VLL | NÜR | DON | ÖST | ZOL | MAG | LAC |
ZAN | SIL | CET | MIS 12 |
KNU | JAR | IMO | MUG | NC | 0 | |
1982年 | マルティニ・MK34 | アルファロメオ | MUG 14 |
NÜR | DON | ZOL | MAG | ÖST | ZAN | SIL | NC | 0 | ||||||||
メルツァリオ | マーチ・803 | MNZ DNQ |
PER Ret |
LAC | KNU | NOG | JAR | KAS |
ヨーロッパF2選手権
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | Pos. | Pts |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1975 | スクーデリア・デル・パサットーレ | マーチ・752 | BMW M12/7 | EST 3 |
THR Ret |
HOC NC |
NÜR 14 |
PAU | HOC Ret |
SAL | ROU | MUG Ret |
PER Ret |
SIL | ZOL | NOG | VLL | 18位 | 4 |
1977 | スクーデリア・エベレスト | ラルト・RT1 | フェラーリ Dino | SIL | THR Ret |
HOC DNQ |
NÜR | VLL Ret |
PAU DNQ |
MUG 7 |
ROU DNQ |
NOG 9 |
11th | 9 | |||||
トリヴェラート・レーシング | シェブロン・B40 | BMW M12/7 | PER 8 |
MIS 1 |
EST 9 |
DON | |||||||||||||
1979 | ランベルト・レオーニ | マーチ・782 | Amaroli | SIL | HOC | THR | NÜR | VLL DNQ |
MUG Ret |
PAU | HOC | ZAN | PER | MIS | DON | NC | 0 | ||
1982 | メルツァリオ | メルツァリオ・282 | BMW M12/7 | SIL | HOC | THR | NÜR | MUG | VLL | PAU | SPA | HOC | DON | MAN | PER | MIS 14 |
NC | 0 | |
1983 | Schweizer Automobil Rennsport | マーチ・832 | BMW M12/7 | SIL 6 |
20位 | 1 | |||||||||||||
ジェームス・グレシャム・レーシング | THR 11 |
HOC 7 |
NÜR Ret |
VLL 9 |
PAU Ret |
JAR | DON | MIS | PER | ZOL | MUG | ||||||||
1984 | EMCOスポーツ | ミナルディ・M283 | BMW M12/7 | SIL Ret |
HOC Ret |
NC | 0 | ||||||||||||
ミナルディ | THR 9 |
VLL | MUG | PAU | HOC | MIS 10 |
PER 9 |
DON 11 |
BRH |
国際F3000選手権
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | Pos. | Pts |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985 | PMCモータースポーツ | ウィリアムズ・FW08C | コスワースDFV | SIL NC |
THR 16 |
EST | NÜR | VLL Ret |
PAU 3 |
SPA Ret |
DIJ 15 |
11位 | 8 | ||||
Corbari Italia | マーチ・85B | PER Ret |
ÖST 3 |
ZAN 11 |
DON 11 | ||||||||||||
1986 | ITI 3000 | マーチ・86B | コスワースDFV | SIL 11 |
VLL Ret |
PAU 7 |
SPA Ret |
IMO 9 |
MUG DNQ |
PER 15 |
ÖST DNS |
BIR | BUG | JAR | NC | 0 | |
1987 | ファースト・レーシング | マーチ・87B | コスワースDFV | SIL 8 |
VLL 8 |
SPA 13 |
PAU 6 |
DON Ret |
PER 5 |
BRH 11 |
BIR Ret |
IMO 4 |
9位 | 12 | |||
ジャッド | BUG 4 |
JAR 4 |
フォーミュラ1
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | WDC | Pts |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977年 | サーティース | TS19 | コスワースDFV 3.0 V8 | ARG | BRA | RSA | USW | ESP | MON | BEL | SWE | FRA | GBR | GER | AUT | NED | ITA DNQ |
USA | CAN | JPN | NC | 0 |
1978年 | エンサイン | N177 | コスワースDFV 3.0 V8 | ARG Ret |
BRA DNS |
RSA DNQ |
USW DNQ |
MON | BEL | ESP | SWE | FRA | GBR | GER | AUT | NED | ITA | USA | CAN | NC | 0 |
全日本フォーミュラ2選手権
[編集]年 | 所属チーム | シャシー | エンジン | タイヤ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978年 | シェブロンカーズ | シェブロン・B40 | BMW M12/7 | B | SUZ | FSW ret |
SUZ | SUZ | SUZ | NIS | SUZ | NC | 0 |
ル・マン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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1988年 | 伊太利屋スポーツ チーム・ル・マン |
森本晃生 アンデルス・オロフソン |
マーチ・88G-日産 (日産・R88S) | C1 | 69 | DNF | DNF |
Source:[6]
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脚注
[編集]- ^ ファースト・レーシングニューマシン発表 グランプリ・エクスプレス 1989NA回帰元年記念号 32頁 山海堂 1989年2月8日発行
- ^ ファーストF1チーム 戦わずして負ける グランプリ・エクスプレス ブラジルGP号 36頁 1989年4月15日発行
- ^ F1断念のファーストがライフ・レーシング・エンジンにF1シャシーを売却 Racing On No.055 37頁 武集書房 1989年8月15日発行
- ^ Ernesto Vita rachète les droits de propriété intellectuelle du châssis First L189 à Leoni, dans Sport-Auto HS no 12, 1990, p. 65
- ^ FIRST ForixAutosport
- ^ “Lamberto Leoni, Italy”. racingsportscars.com. September 23, 2017閲覧。