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ノート:南無

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親鸞の「南無」について

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浄土真宗の開祖・親鸞の念仏の「南無」は、全て「祈願」の意味であった。親鸞の著述で、祈り禁止は『高僧和讃』の1回だけだ。祈り念仏を勧める文は、『行巻』の「6字釈」と『御消息』で2回の計3回の勧信であり、祈り念仏が正しかった。『行巻』の「六字釈」で「南無」を「帰命」と訳し、「帰」に左訓が存在する。大谷派所蔵の国宝真筆本は「ヨリタノムナリ」(『聖典』大派p177。)という。『岩波古語辞典』p796、(1988年・第13刷発行。)で、「タノミはタは接頭語。ノミは祈(の)みの意か。ひたすらよい結果を祈って、相手に身の将来をまかせる意。」という。本派の重文本の左訓が、「タヨリノムトイフ」(『聖典』,本派170頁の下註。)となっており、「タ」は接頭語、「ノム」は「祈り」である。高田派の重文本は「ヨクタノムトイフ」と左訓され、「タ」は接頭語、「ノム」は「祈り」である。親鸞念仏に「南無」が付けば全て、信後の感謝の念仏まで含めて「世の中安穏なれ」という祈り念仏以外は存在しなかったのである。すると、祈り禁止の『和讃』は念仏の祈り禁止ではなく、現世利益の祈りを禁止して願生の祈り念仏へと切り替わらせたと解釈すべきだった。[1]書名入井善樹

脚注

  1. ^ 【広報誌=入井善樹著・『親鸞聖人の現場の教学』第6章、「現益」への期待と「いのり」p178~184。(1990年・法蔵館発行)。入井善樹著『親鸞念仏の可能性』p105~107、(1995年・国書刊行会発行)。査読・広報論文=『東方』24号・入井善樹著『祈り禁止は親鸞の錯覚か』p103.(2008年・東方学院発行)。『東方』38号・『親鸞の《ひろまり》と煩悩の行方』p・128。(2022年・東方学院発行)】

--いりいよしき会話2023年5月18日 (木) 20:19 (UTC)[返信]