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ナポラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナポラのウィーン=テレジアンウム校の正面。三名の生徒が土曜日の放課後に外出する光景をとらえた一葉。
ナポラの図書館蔵書印

ナポラ (Napola) とは、1933年ナチス政権獲得後に民族共同体教育施設として設けられた、中等教育レベルの寄宿学校ギムナジウム)である。卒業生には大学入学資格が与えられた。

公式名称はドイツ語Nationalpolitische Erziehungsanstalt (NPEA) であり、ナポラとは Nationalpolitische Lehranstalt の太文字部分を読んだものである(Erziehungsanstalt, Lehranstalt はいずれも「教育施設」に当たる語で、おおむね「学校」を意味する)。訳語としては「国家政治教育学校」[1]や「国民政治教育施設」[2]、「国家政治教育施設」[3]、「国家教育舎」[4]などがある。

目的

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ナポラの目的とするところは心身共に民族と国家に献身するナチス党員を育成することにある。生徒は未来の指導者世代を形成することが求められた。しかし、アドルフ・ヒトラー学校生徒とは異なり、職業選択の自由を保持していた。

沿革

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1933年最初の三校が教育大臣ベルンハルト・ルストの主管する国立の学校として設立された。

1936年から親衛隊大将アウグスト・ハイスマイヤーがナポラ監督官となる。 1939年から1940年にかけてナポラの主管は親衛隊のハイスマイヤー本部 (Dienststelle Heißmeyer) に移行される。 これに伴い、ナポラは親衛隊の直接的な影響下に置かれ、ハイスマイヤーは教職員に親衛隊への入隊を迫った。また、生徒や教職員に親衛隊の制服・階級を導入することを試みた。

1941年にはオーストリアを含む全ドイツに6000名の生徒が30校に学んだ。このうち2校が女子校であった。終戦までに43校に増大した。

編成・組織

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ナポラでの物理授業光景、弾道学と空気力学の模型が写っている

オラニエンシュタイン校を例として説明すると、同校はディーツ (Diez)に所在、1919年に廃止されたプロイセン王国陸軍幼年学校 (Königlich-Preußische Kadettenanstalt) の伝統を継承、校内で青色の肩章を付けたオリーブ色の制服を着用した。

生徒はユンクマン (Jungmann、新人または新兵の意味) と称された。休暇中も帰郷先のヒトラーユーゲント組織で活動義務があるので外出着はヒトラーユーゲントの制服を着用した。

学校は8学年に分かれた。

ナポラは形式上ナチス党の突撃隊に属していたので、校長は突撃隊員であったが、開戦に伴い教員も変化し、1942年には突撃隊に属する教員はいなくなり、正規の授業と並んで軍事教練に重点が置かれたので、元教員であったが、戦傷のために現役復帰できない国防軍将校が授業を担当した。

戦争が長くなれば、なるほど年かさの生徒は国防軍や武装親衛隊に志願し、ナポラは国防軍や武装親衛隊の将校予備軍の様相を呈した。

なお、ナポラに入所した少年を主人公にした映画「エリート養成機関 ナポラ」(2004年、ドイツ 原題:NAPOLA/BEFORE THE FALL )が公開されている。

所在地

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男子生徒

No. 都市 公式名称 州名(当時) 開校年月日 転用前の施設
1 プレーン NPEA プレーン校 プロイセン州シュレースヴィヒ=ホルシュタイン県 1933年5月1日 国立教育施設・プロイセン王立幼年学校
2 ポツダム NPEA ポツダム校 プロイセン州ブランデンブルク県 1933年5月26日 戦争孤児院(Großes Militärwaisenhaus
3 ケスリーン NPEA ケスリーン校 プロイセン州ポンメルン県 1933年7月15日 国立教育施設
4 ベルリン=シュパンダウ NPEA ベルリン=シュパンダウ校 ベルリン市 1934年1月30日 プロイセン体育大学
5 ナウムブルク NPEA ナウムブルク校 プロイセン州ザクセン県 1934年3月15日 国立教育施設・プロイセン王立幼年学校
6 イルフェルト NPEA イルフェルト校 プロイセン州ハノーファー県→ザクセン県 1934年4月20日 修道院学校
7 ヴァールシュタット NPEA ヴァールシュタット校 プロイセン州オーバーシュレージエン県 1934年4月9日 国立教育施設
8 ディーツ NPEA オラニーンシュタイン校 プロイセン州ヘッセン=ナッサウ県 1934年 幼年学校
9 スツーム NPEA スツーム校 プロイセン州東プロイセン県ダンツィヒ=西プロイセン 1934年10月1日 兵営
10 バレンシュテット NPEA アンハルト校 アンハルト州 1934年5月 市立ギムナジウム
11 ドレスデン=クロッチェ NPEA ドレスデン=クロッチェ校 ザクセン州 1. April 1934 州立農業学校
12 バックナンク NPEA バックナンク校 ヴュルテンベルク州 1934年5月2日 師範学校
13 ベンスブルク NPEA ベンスブルク校 プロイセン州ラインラント県 1935年6月1日 プロイセン王立幼年学校
14 シュルプフォルタ NPEA シュルプフォルタ校 プロイセン州ザクセン県 1935年7月1日 寄宿制ギムナジウム(Landessschule zur Pforte)
15 ロットワイル NPEA ロットワイル校 ヴュルテンベルク州 1936年4月1日 カトリック系師範学校
16 ノイツェレ NPEA ノイツェレ校 プロイセン州ブランデンブルク県 1934年(1938年閉鎖) 養老院、少女教養学校
17 ウィーン=テレジアンウム NPEA ウィーン=テレジアンウム校 ウィーン市 1939年3月13日 大学
18 ウィーン=ブライテンゼー NPEA ウィーン=ブライテンゼー校 ウィーン市 1939年3月13日 国立教育施設 (Kommandogebäude Theodor Körner)
19 トライスキルヒェン NPEA トライスキルヒェン校 ニーダードナウ州オーストリア 1939年3月13日 国立教育施設 (オーストリア)
20 プロシュコヴィッツ NPEA プロシュコヴィッツ校 ズデーテンラント 1940年10月10日
21 ライゼン NPEA ヴァルテラント校 ヴァルテラント 1940年
22 ローベン NPEA ローベン校 オーバーシュレージエン州 1941年4月1日 言語矯正学校
23 プットブス NPEA リューゲン プロイセン州ポンメルン県 1941年9月1日 教育大学
24 ライヒェナウ NPEA ライヒェナウ校 バーデン州 1941年 介護療養施設
25 ザンクト・ヴェンデル NPEA ザンクト・ヴェンデル校 ザールラント州 1941年9月1日 神言会寄宿学校
26 ヴァイアーホーフ NPEA ドナースベルク校 バイエルン州(プファルツ) 1941年 高等学校„Gau-Oberschule“
27 ザンクト・パウル/ラヴァントタル NPEA ケルンテン・シュパンハイム校 ケルンテン州(オーストリア) 1941年 ベネディクト派修道院
28 フォラウ NPEA フォラウ校 シュタイアーマルク州(オーストリア) 1943年1月 アウグスティヌス派修道院
29 ゼッカウ NPEA ゼッカウ校 シュタイアーマルク州(オーストリア) 1941年 養老院
30 ルーフアッハ NPEA ルーフアッハ校 アルザス地方(フランス) 1940年10月 介護施設
31 ハーゼリューネ NPEA エムスラント校 ハノーファー地方 1941年10月17日 修道院学校
32 ノイボイエルン NPEA ノイボイエルン校 バイエルン州 1942年5月 城と州立学校寄宿舎
33 ザンクト・ファイト NPEA ザンクト・ファイト校 スロヴェニア 1942年7月 司祭養成所
34 モクリッツ NPEA モクリッツ校 シュタイアーマルク州(現・スロヴェニアのモクリチェ) 1942年
35 アッカーン NPEA アッカーン バーデン州 1943年8月 介護療養施設
36 クッテンベルク NPEA ベーメン校 (保護領) 1944年4月22日 イエズス会学院、兵営
37 ラウドニッツ・アン・デア・エルベ(ロウドニツェ・ナト・ラベム) NPEA ラウドニッツ校 (保護領) 1944年7月
38 ランバッハ オーバードナウ州 1941年 ベネディクト会修道院、養老院

典拠: Harald Scholz: NS-Ausleseschulen

著名なナポラ出身者

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 日和聡子. “生きたすべての生命の記録につつまれて”. Book bang. 2021年4月25日閲覧。
  2. ^ 椎名万吉「資料紹介 ナチス・ドイツの『帝国文部省官報』」『教育学研究』第42巻第1号、1957年、80頁、2021年4月25日閲覧 
  3. ^ 川瀬泰史「ナチスの「近代性」:「修正主義派」のナチス近代化論の検討」『立教経済学研究』第47巻第1号、1993年、80頁、2021年4月25日閲覧 
  4. ^ 小峰総一郎「ナチス教員連盟について : 組織���らびに教育活動」『国際教養学部論叢』第12巻第2号、中京大学国際教養学部、2019年、59頁、2021年4月25日閲覧 

関連項目

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