アルトゥーロ・バジーレ
アルトゥーロ・バジーレ | |
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基本情報 | |
出生名 | Arturo Basile |
生誕 |
1914年1月16日 イタリア王国、シラクーザ県カニカッティーニ・バーニ |
死没 |
1968年5月21日 イタリア、ヴェルチェッリ県ヴェルチェッリ |
学歴 | トリノ音楽院 |
ジャンル | オーボエ |
職業 | 指揮者、オーボエ奏者 |
活動期間 | 1941年 - 1968年 |
アルトゥーロ・バジーレ(Arturo Basile, 1914年1月16日-1968年5月21日)は、イタリア共和国の指揮者。主にオペラ指揮者として活躍し、ヴェルディとプッチーニを得意とした。NHKイタリア歌劇団で訪れた日本など、イタリア国外でも指揮を行ったが、交通事故により54歳で他界した。
生涯
[編集]アルトゥーロ・バジーレは1914年1月16日、シチリア州シラクーザ県カニカッティーニ・バーニに生まれる[1]。9歳のときに家族とともにトリノに移り、12歳のときにはフランコ・アルファーノが当時校長を務めていたトリノ音楽院に進学して、初めはオーボエを専攻する[1][2]。のちにジョルジョ・フェデリコ・ゲディーニのマスター・クラスも受講した[1][2]。1933年6月に卒業後はイタリア軍に入隊し、除隊後の1941年にイタリア放送協会の前身であるイタリア国営放送(EIRA)の専属オーケストラ(トリノ放送管弦楽団)にオーボエ奏者として入団する[1][2]。当時の同僚には、のちにソリストとして活躍するフルート奏者のセヴェリーノ・ガッゼローニがいた[1]。第二次世界大戦でイタリアが講和したあとの1943年10月16日、バジーレはトリノのテアトロ・カリニャーノで指揮者としてデビューを果たす[1]。1944年12月20日には同じトリノのテアトロ・デル・ポポロで、当初はジーノ・マリヌッツィが指揮をする予定だったプッチーニの『マノン・レスコー』を、発作で倒れたマリヌッツィに代わって指揮した[1]。1944年12月26日付のトリノのラ・スタンパ紙はこの公演について、「バジーレは立派にオーケストラを制御し、スタンディングオベーションで讃えられた」と伝えた[1]。その間、私生活では1942年5月29日にローマでエリザベッタ・サンジェルマーノと結婚し、1944年に長男リッカルドが誕生した[1][2]。
1946年7月、バジーレはトゥリオ・セラフィンが審査委員長を務める指揮者コンクールに出場して優勝する。1949年11月8日から10日にかけて、当時はまだ新進気鋭のソプラノ歌手であったマリア・カラスはチェトラ[注釈 1]への最初の正規録音のためにトリノを訪れたが、この時の伴奏を務めたのがバジーレが指揮するトリノ放送管弦楽団であった[1][3]。カラスはバジーレの指揮で、ベッリーニの『ノルマ』から「清らかな女神」、『清教徒』から「あなたの優しい声が」、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から「愛の死」[注釈 2]の3曲をレコーディングした[3]。以降、バジーレはイタリア国内はもちろんのこと、モンテカルロ、オランダ、オーストリア、アメリカ、日本、フランスなどでの歌劇場やオペラ公演に出演した[1]。イタリア国内に限ってみれば、1960年から1961年にはボローニャ市立劇場の首席指揮者となり、以降は1968年初めまでローマ歌劇場、サン・カルロ劇場、パルマのテアトロ・レージョにしばしば客演した[1]。レナータ・テバルディやジュリエッタ・シミオナート、ジュゼッペ・ディ・ステファノなどといった当時のイタリアの大歌手はローマやボローニャなどの舞台にはあまり立たなかったものの、バジーレが首席指揮者や客演指揮者を務めていたころに限っては、信頼関係を生かして舞台に立つことがあった[1]。
しかし、バジーレのキャリアは突然終わる。バジーレは再建途上のトリノのテアトロ・レージョの音楽監督への就任を要請され、それを内諾する[1]。その帰りの1968年5月21日、バジーレはソプラノ歌手ジャンナ・ガリの妹マリーサを乗せてBMWを運転中、ピエモンテ州ヴェルチェッリ県ヴェルチェッリで交通事故に遭いマリーサとともに死去した。54歳没。バジーレの名前は死去とともに薄れつつあったが、1990年代後半から2000年代にかけて、残されたいくつかの録音が復刻されている[2]。
日本においては、1961年10月のNHK招聘「第3回NHKイタリア歌劇団」公演で来日し、東京文化会館と大阪のフェスティバルホールでヴェルディの『リゴレット』[注釈 3]をジュゼッペ・モレッリと分担して指揮したほか、プッチーニの『トスカ』[注釈 4]全公演を指揮し、合間に開かれた特別演奏会をモレッリ、フランコ・カプアーナとともに、こちらも東京文化会館とフェスティバルホールで指揮した[4][5][注釈 5]。このうち、『トスカ』の公演がLPレコードとCDで1991年に、レーザーディスクで1991年と1993年に、DVDで2004年にいずれもキングレコードから発売された[6][注釈 6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ イタリアのレコード・レーベル。
- ^ イタリア語による歌唱(#黒田 p.200)。
- ^ (主な配役)リゴレット:アルド・プロッティ、マントヴァ侯爵:ジャンニ・ポッジ、ジルダ:ガブリエラ・トゥッチ(#クラシックジャーナル p.60)
- ^ (主な配役)トスカ:テバルディ、カヴァラドッシ:ポッジ、アンジェロ・ロフォレーゼ、スカルピア:ジャン・ジャコモ・グェルフィ、プロッティ(#クラシックジャーナル p.60)
- ^ バジーレの指揮は『運命の力』序曲、『セビリアの理髪師』「中傷とはそよ風です」(パオロ・ワシントン)、『ファルスタッフ』「夢かまことか」(アッティリオ・ドラーツィ)、『ドン・カルロ』「むごい運命よ」(シミオナート)、『リゴレット』「女心の歌」(ポッジ)、『ラ・ボエーム』「私の名はミミ」(テバルディ)の6曲(#NHKsocon2 p.131)。
- ^ LP(K25C-313/314)とCD(K33Y-105/106)は1961年10月11日の公演、レーザーディスク(534L-11/12、KILM-105/106)とDVD(KIBM-1013)は1961年10月22日の公演(#クラシックジャーナル pp.68-69)。
出典
[編集]参考文献
[編集]サイト
[編集]- “Biografia” (イタリア語). Arturo Basile. Emanuele Petruzzelli. 2012年12月26日閲覧。
- “Arturo Basile biography” (英語). allmusic. Rovi Corp. 2012年12月26日閲覧。
印刷物
[編集]- NHK交響楽団 編『NHK交響楽団四十年史』NHK交響楽団、1967年。
- 黒田恭一「マリア・カラス ディーヴァ(女神)はディーヴァになったのではなくもともとディーヴァだ」『クラシック 不滅の巨匠たち』音楽之友社、1993年、200-203頁。
- NHK交響楽団(編)「NHK交響楽団全演奏会記録2 戦後編・1(1945~1973)」『Philharmony』第73巻第2号、NHK交響楽団、2001年。
- 中川右介(司会・構成)、武石英夫、松坂茂樹、小山正「座談会 伝説のイタリア・オペラ」『クラシックジャーナル』 32巻、アルファベータ、2008年、57-81頁。ISBN 978-4-87198-742-4。
外部リンク
[編集]- “1961年第3次イタリア歌劇団公演”. 「NHKイタリア歌劇団」 (イタオペ) は 永久に不滅です. (元)歌う蔵元. 2012年12月26日閲覧。